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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

「神の国」を「たとえ」る-『日本とイエスの顔』98-101  

イエスの公的第一声、
神の「バシレイア」が近づいたを解説し、
「神の国」=「天の国」=「生命」=「永遠の生命」に導く。

イエスは「神の国」を定義せず、すべて「たとえ」で語った。

その理由
①吾らがその中に包まれていること→外に立って言葉で概念化できない(第1章参照)
また、わたしたちが寄って立つ根源そのものだから。

②当時の生活実感から説くため
(これは、他のラビも行っていた。)

そして、以下、その具体的たとえとして、
3つの「種」のたとえ、
すなわち「からし種」「パン種」「ひそかに育つ種」に学ぶ。

共通点:神の国は、人間の力でなく、自らの力で成長する根源の力・原事実
→わたしたちに、童心に返って受け入れることをすすめる
=イエスのメッセージ

category: 『日本とイエスの顔』

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コメント

「神の国」という表現

こんばんは。
mitakaforestです。
いつも楽しく拝読させていただいております。
今日は先生の講座だったのですね。
遠方ゆえ伺えず、とても残念です。

神の国とは、「すべての現実を神の恵みとして喜んで受け入れ、いかなる時も共に歩んでくださる神の温かさを実感しつつ、前向きに一歩を踏み出すことのできる心の状態」と考えます。
人生という時の流れを究極まで微分してゆくと、日々の小さな決断・受容に至ります。
やり直しのきかない過去と不確定な未来の狭間で、この日々の小さな決断・受容にあたって、「神」のぬくもりを感じるために不可欠な行為が「祈り」です。
「日本とイエスの顔」のあとがきに、とてもわかりやすい表現があります。
「無としか呼びようのない何かに向かって祈るという行為をおこしたとき、初めて人は、ものとしてではなくて、かたとしての神の体験的認識を持つことができるようになるのだと思います。」(249ページ)
神父さまのおっしゃる「位格神」に対して、1対1で語りかける「祈り」という行為を通じてのみ、私たちは神の働きを受け入れることができます。
この状態がすなわち神の国なのだと思います。

引き続き楽しい学びの機会をよろしくお願いいたします。

mitakaforest #XM8vAG0k | URL
2010/09/25 20:15 | edit

mitakaforestさん、ありがとうございます

いつも、レスポンスありがとうございます。
大変、励みになります。

今日の講座は、少数でしたが、とても良い雰囲気で、
お話ができました。

神の国とは「いかなる時も、・・・・一歩踏み出せる心の状態」
なかなか難しいことですが、
「南無アッバ」の祈りを繰り返し唱え、
「お札」にこめられた、多くの人たちの祈りに支えられて、
少しずつでも、その「状態」に近づきたいと、思う
このごろです。

yohaku5 #oBO5MkqQ | URL
2010/09/25 21:01 | edit

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