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文脈を読む  

ところで、『新約聖書』というのは、今は本屋さんに行くと、1冊になってるけど、最初から1冊の本じゃないんです。27冊の文章や手紙をまとめた合本です。
書かれた時期や場所、書いた人もいろいろです。それをのちの教会がまとめたんだね。
だから、ある言葉だけをとって比較すると、あっちではこういってるのに、こっちでは反対のことを言ってる、ってこともしばしばあります。
そもそも、27の文章や手紙は、今の本やテレビなんかと違って、不特定多数の人を対象に書かれてはいない。目の前の特定の人を相手に書かれています。
だから、書く動機やどういう読者を対象にしたか、あるいは参考にした資料の違いなどによって、表現も変わるのです。。
だから、そうした文脈(コンテキスト)をみなければいけない、ということです。(そしていずれ、それをこえることになります。。。。)
ただ、27書に共通なのは、「イエスがキリスト(つまり救い主)である」という信仰を宣言している書物だってことです。
「救い」とか「信仰」って何か?ということは、また、あとで考えましょう。
今は、そういう趣旨で書かれた『新約聖書』のうち、「福音書」というのは、イエスの伝記のような体裁をとった信仰宣言書、というものだと思ってください。

それから、もう一点。この「金持ちの男」の話とほとんど同じ話が、同じ新約聖書のなかの『マタイによる福音書』19章にも、『ルカによる福音書』18章にもあるのです。
こういうのを「並行箇所」といいます。そしてそれらは、微妙に言葉が違う。
なんでそうなるかというと、三つの福音書――これを「共観福音書」といいますーーのうち、一番古いのが『マルコによる福音書』。だいたい紀元六五年から七〇年代。
ちなみに、イエスが十字架刑で死んだのは、紀元三〇年か三一年です。
つぎに、マタイやルカが自分たちの福音書を書こうとしたときは、八〇年代なのです。ですから、すでに『マルコによる福音書』が出回っていたのです。もちろん手書きの写本ですが。
それを見ながら、マタイやルカが、独自の資料を加えて構成しなおした、というわけです。
ですから、たとえば、『マルコ』17節の「ある人」。
これが『マタイ』では、「一人の男」(19・16)あるいは「青年」(19・20)、『ルカによる福音書』では「ある議員」(18・18)になっています。面白いね。
こうやって、並行箇所を比較しながら読むと、他にもいろいろ面白いことがわかってくるんだけど、今回は、一番古い『マルコ』をメインに、読んでいきましょう。

「ある人が(イエスの所に)走り寄って、ひざまずいて尋ねた」という記述からは、この人のそのときの気持ちが察せられます。
かなり焦りというか、せっぱつまった感じです。
また、「ひざまずいて」というのですから、やっぱりこの人はイエスを尊敬していたんでしょうね。
今まで話したことはなかったんだろうけど、うわさで伝え聞いたりしてイエスのことはだいたい知っていた、すごい人らしい・・・・そんな感じでしょう。
そして呼びかける、「善い先生!」と。やっぱりイエスを尊敬していたことを思わせる言葉です。
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