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社会で生きることの難しさ  

すでに君たちも知ってるとおり、現代ボクらが生きている社会は〝自給自足〟の原始社会じゃない。
つまり、自分が必要とする物やサービス――こういうのを経済学では〝財〟というんだけど、ここでは簡単に〝モノ〟としておきましょう――そういうモノすべてを、自分で生産するってことは、ほとんどないよね。買うのが基本。
資本主義の社会では、〝分業と協業〟によって互いにモノを生産し、それらをしじょう市場を通じて分配し消費する、そういうしくみになってる。
こうした生産・分配・消費の仲立ちをするのが貨幣(カネ)です。
そして原則的には法律に反しないかぎり、貨幣=カネがあればそれを元手(資本)として、〝何でも自由に〟生産し、あるいは自由に買って消費することができるのが、ぼくたちが住んでいる社会です。
さて、この資本主義社会の構造のなかで、ぼくら一人ひとりはどう考え、どう行動するだろうか、ちょっと考えてみたいと思います。
すぐ気がつくことは、こうした社会のしくみのなかでは、「この世のなかカネさえあれば・・・・」という〝拝金主義〟が知らずしらずのうちに蔓延していく、ということです。
それは、カネ自体を崇め奉るということではもちろんありません。
この場合、カネがモノ(ときにヒトも)を〝自由〟に動かしたり、貯めたりできる便利な道具・手段だということです。
平たく言えば〝カネがあれば何かと不自由しない〟ということです。

そうじゃないって言う人もいるかもしれないけど、大人たちが金や地位や名誉に執着するのは、こうした不安からの自由を求めてのことなんだね。
このへんで、最初に出した、カネと自由の問題がからんできます。
こういうカネやモノが、即解決を約束するものでないことは頭では十分わかっているんだけど、これらが〝とりあえず〟何も打つ手のない不安から一時的にも解放してくれそうな気がするわけです。
でも、これを下世話なこと、俗世間的として排除すれば人間の本質を見誤ることになる。
問題はそれから。〝とりあえず〟のことがその分をわきまえず、知らず知らずのうちに〝すべて〟――「目的」そのものとなってしまうことが多いんだね。
本質的に自己目的化しやすい性質がカネやモノにはある。
これらはすべて本来、ほんとうに自由になるための、あくまでも「手段」――通過点であるべきはずだったものだけど、ぼくら人間はいつのまにかそれを目的そのものと化してしまう危険があるわけです。
自己目的化すれば、それをできるだけ効率よく、より多く、より強く求めていくことになる。俗に言う〝欲に駆られる〟という状態です。
人間が本来自由であるべき主体的な自己を失って、欲望に振り回され、コントロールできなくなるわけです。
主客逆転。
もっとつっこんでいえば、人生の主人公はだれかってこと。

こう考えてくると、ここで問題にしなければならないのは、カネそのものではなく、カネと人間の関係、あるいはもっと根本的な問いとして「自由とは何か」また「どう生きれば真に自由になれるか」ってことだと思います。

それをこれから、大きく4つの話を題材にして、考えていこうと思います。
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