「南無アッバ」を生きる ホーム » スポンサー広告 » 連載「井上神父の言葉に出会う」 »(26)「行」を媒介とする真の自己の獲得」における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>-「風」第85号2010年夏・秋

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

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(26)「行」を媒介とする真の自己の獲得」における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>-「風」第85号2010年夏・秋  

今回は、傍線など多いため(以下の文では、傍線、傍点は、省略されています)、pdfアドビでもアップしています。
なので、PCによっては、ワンクリックではつながらないかもしれません。その場合は、リロードなど試してみてください。
kotobanideau-26.pdf

五 「頭を下げ」「共に」生きる

前回述べたことを少し補足します。
他者を傷つけている思いと十字架のイエスの愛に対する思い--<罪の自覚・十字架>双方向の反復によって、「人を傷つけること」=「イエスを傷つけること」という、「傷」における他者とイエスの同定意識がうまれ、その思いが深くわたしたちの心に届いた時、

<そこにはじめて、深々と頭をさげる信仰の姿勢が生まれてくる>

ということを学びました。そして、その「頭を下げる」姿勢は、とりもなおさず<たとえ>(ルカによる福音書一八章九~一四節<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>のこと。以下同様)における「徴税人」の姿であり、その対極にあるのが「ファリサイ派の人」の「人を見下す」姿勢でした。

 ところで、本連載第二三回「人に石を投げない心」――「悲愛は可能か?」においてわたしは、井上神父が、

<わたしたちが「醜く」「残酷」なダメ人間だということを、イエスは十分知りつくしたうえでアガペーを説いた、そこにこそ「信仰の秘密」がある>

と述べていることを取り上げました(『風』八二号三九頁)。

ではなぜイエスは、「人を傷つけ」「人を軽蔑し見下す」ことが常であるわたしたちダメ人間に、そのことを「十分知りつくしたうえで」悲愛を説いたのでしょうか。理屈からいえば、そんな無駄とも思えることをイエスはなぜしたのか。しかも<そこにこそ「信仰の秘密」がある>というのです。『日本とイエスの顔』では、

<この信仰の秘密さぐるため、イエスの姿勢と教えにいま少し私たちは目を向けてみましょう。>

と述べ、続けてすぐ、

<悲愛が共にということをもっともたいせつにするのであれば、人を軽蔑し見下すということは、悲愛とはほどとおいことといわなければなりません。>(一七八頁)

といい、その直後、件の<たとえ>を全文引用しながら、神父は回心体験を語っていきます。今この部分をもう一度振り返ってみたいと思います。

 右の井上神父の言葉は、悲愛の中心となる「共に」ということからは「ほどとおいこと」として、「人を軽蔑し見下す」姿勢が語られています。すなわちそれは、「ファリサイ派の人」の姿勢ということになります。

このことを前回学んだこととすり合わせてみましょう。「ファリサイ派の人」の「人を見下す」姿勢の対極にあるものとして井上神父は、「徴税人」の「頭を下げる」姿勢を主張していました。そして今ここではそれが、「悲愛」の中心メッセージ「共に」生きるということに置き換えられて主張されているのではないでしょうか。すなわち、先には「人を傷つけること」と「イエスを傷つけること」とが同定されたように、ここでは、「頭を下げる」姿勢と「共に」生きることとが自ずと近づいていくということが説かれているのではないかと思うのです。わたしたちは、「頭を下げる」姿勢を学ぶ程に、イエスと「共に」、また人々と「共に」、という悲愛のもっとも大切な所を生き始めるということです。それが神父の言う、少なくとも「信仰の秘密」(理屈でなく)の一端ではないか、とわたしには思われるのです。

『日本とイエスの顔』第七章「悲愛」では、当該<たとえ>の後に<善いサマリア人のたとえ>が引用され、悲愛――「共に」生きるということの意味を、より深く学ぶことになります。この部分については、いずれ改めて見ていくことにしましょう。

第二六章 「行を媒介とする真の自己の獲得」における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>

一 「行」と井上神父

 さて、『イエスのまなざし』のなかでもう一箇所、<たとえ>に言及する「行を媒介とする真の自己の獲得」に移ります。このエッセイは門脇佳吉編『修行と人間形成』(一九七八年、創元社)に書かれたものです。この本には「行の教育的意義」という副題のもと、禅・ヨーガ・天台・修験道・神道など多分野から大森曹玄老師ほか十一名の宗教家・学者らが書いたものがまとめられています。「キリスト教の修行」では、井上神父のほか押田成人神父なども執筆に加わっています。

 当該エッセイが書かれた一九七八年は、『日本とイエスの顔』の出版から二年後、『私の中のキリスト』が発刊された時期と重なります。このなかでも、たとえば、

<体験そのものは教えることはできないもので、言葉で教えることができるのはただ、どうやったらその体験を自分のものとすることができるか、ということだけであるところに、およそあらゆる宗教において、知識よりぎょう行ということが重んぜられる理由がある>(第九章 キリストと共に歩む、二一〇頁)

と述べており、井上神父が「行」に関して、並々ならぬ関心をもっていたことがうかがえます。

 神父の体験主義・実践主義的側面については拙稿のなかでも縷々述べてきたところですが、近年書かれた神父自身の文章のなかには、次のような記述があります。

<ただ今になって不思議に思うことは、この求道の長い旅に私が出発した、そのときには、私はいわば「知」だけではなく「行」をも同じように重んじようとしたなどという意図は全くなく、ただひたすら外側から神の悲愛について考えるのではなく、神の悲愛の中に飛びこんで、神の悲愛を知りたいと夢中になっていただけだったということなのだと思います。>(「風」第八一号、一〇頁「南無アッバ」の祈りとお札に包まれて)

これは、「~について知る」という概念による認識と、「~を知る」という体験による認識のちがいの大切さを、神父に教えてくれたのがベルグソンであり、はるばるフランスへ渡ったのも、テレジアのように「神を知りたいと願って」のことだった、と述懐したうえでの言葉です。当時の井上神父に、体験知の重要性についての明確な意識がなかったとしても、テレジアへの思いが「知」をこえた「行」を無意識に求めさせたという証左なのだと思います。

こうして、そもそも体験知――「行」を重視する神父が「行を媒介とする真の自己獲得」なるエッセイを書くのは必然ともいえるわけですが、ここでは現在のテーマである<たとえ>を中心に見ていきたいと思います。

 『イエスのまなざし』におさめられた文章としては、二九頁と比較的長いこのエッセイを一読して気づくのは、<たとえ>を含め、『ルカによる福音書』に触れ、あるいはそこからの引用が非常に多い、ということです。ざっと数えてみると、三〇箇所ある聖句引用(参照)のうち三分の一以上にあたる一二箇所が『ルカによる福音書』からのものです。ちなみに二番目に多いのは『マタイによる福音書』で五回、三番が『マルコによる福音書』で四回と続きます。

このあたりのことから単純に想像すると、「行」というテーマが与えられたとき、井上神父のなかでは『ルカによる福音書』の特色、独自性と結びつく何かが発想されるのではないか、ということです。他の三福音書以上に、神父が思う「行」を示唆する何かが『ルカによる福音書』に多く見られるということでしょうか。そういうことも念頭に置いてみていきたいと思います。

まず全体を概観してみましょう。

二 「1 宗教における行の必要性」

 全体を二つに分け、この1では、宗教に行は不可欠であると切り出します。その理由は、宗教が
<学問のように、机の前に座って頭を働かせていればそれで獲得できるというような種類のものではなくて、生きていくという私たちの生活そのものに根ざしたものだからである>(『イエスのまなざし』二二四頁。以下、同書からの引用は頁数のみ記載)
とします。

 ここでは、「頭を働かせる」こと(理性)と「生きていく」こと(体験)が明確に対比されていますが、それゆえに〝二つの宗教を同時に考えることはできても、同時に生きることはできない〟のだという、これまで見てきた神父の考えが想起されます。

 そして「について知る」という「概念的知識」と、「を知る」という「体験的知識」をいくつかの例を出しながら、

<体験的知識というものは概念的知識とはちがって、それ自身は根本的に伝達不可能な知識であり、各自が自分でそれを追体験する以外に知りようがない>(二二七頁)

と述べます。その上でこの、体験的知識が「それ自体、伝達不可能」であり、「追体験する以外に知りようがない」という点にこそ、「行」の必要性があると説くのです。

<どんなに多くの書物を読み、知識をたくわえ、そこへ行く道を知っていても、そこへ向けて出発しようという一念を起こさない人は、ほんとうの意味でそのものを知ることはできないでしょう。

聖書、特に新約聖書が行為を要求する実践的指導書であり、私たちに永遠の生命への道を説きあかしてくれる書であるなら、一念発起してその教えに従おうと決意し、行為を起こさないかぎり、ほんとうの意味でイエスの教えをわかることはできないと思います。>(『日本とイエスの顔』三O頁)

繰り返しの引用になりますが(『心の琴線に触れるイエス』一四~一五頁)、「実践的指導書」としての聖書が威力を発揮するのは、この点においてです。

三 「2 イエスの教えにおける行」

 ここからは、イエスの教え――キリスト教に限定した行の必要性と具体が示されます。

 井上神父はまず、『フィリピの信徒への手紙』二章の「キリスト讃歌」と、イエスの「ゲッセマネの祈り」(『マルコによる福音書』一四章三六節)「アッバ、父よ・・・・」を引用し、

<己を無にし、ただ神の御旨になりきること、それがイエスと共に歩もうとするキリスト者の理想である。>(二三二頁)

と説きます。すなわちそれは、本稿第二部の終わりからずっと見てきている、己を「わきまえ、ひかえる」ケノーシス的姿勢です(拙著『すべてはアッバの御手に』第十章参照)。

<己を無にすることによって、小さな自分の我というものに死ぬことによってはじめて真の自己を獲得することができる――イエスの生涯はこの絶対の真理を私たちに示しているのである。>(二三六頁)

<己を無にすること、我に死ぬことによって、自己の存在の根拠たる神の愛と力が初めて完全に働くことにより真の自己が完成される――イエスのアガペー(悲愛)の生涯もまたこの真理を証しているのである。>(二三七頁)

 「共に喜び共に泣き」(『ローマの信徒への手紙』一二章一五節)「共に重荷を負う」(『ガラテヤの信徒への手紙』六章二節)「悲愛」の姿勢は、ケノーシスの実りであるということです。これは前章の「五 頭を下げ共に生きる」の項で示した二重線  部を、より明確に断言したものといえます。

そしてこのエッセイでは、「悲愛」ということに言及してから、『ルカによる福音書』に触れることが多くなるのです。繁雑になるので、ここではいちいち列挙しませんが、そうじてそれらの聖句は、イエスの悲愛の姿勢を明確に示す意図で使われている、といっていいでしょう。

 しかし、わたしたちの目標、「キリスト者の理想」がこのようであっても、

<実際には、ああしたい、こうしたいという自己中心的な欲望に捕えられ、・・・・あせり、嫉妬し、かえって苦しみの淵に追いこまれているのが私たち凡夫の哀しい姿である。

人間イエスの心の中にも、この戦いは十字架の死まで続いたものであったにちがいない。>(二三二頁)

と、「理想」と「実際」――現実とのギャップに悩む「凡夫」のわたしたちに、神父は理解を示します。

この「理想」に近づくためにわたしたちは、具体的にどうすればよいのでしょうか。井上神父はここで、気をつけなければいけないこととして、次のように述べます。

 <イエスとともに歩もうとするキリスト者にとって第一義的なことは、個々のイエスの行為を模倣するというようなことではない。イエスの個々の行為をそのまま模倣しようとするなどということは、かえって大変なあやまちをおかしかねないと私は考える。>(二四〇頁)

 「イエスの悲愛のまなざしと行為」は、ケノーシスのうちに実現した「おのずからに湧出した」ものであり、わたしたち「凡夫」がその「行為だけを真似ようとすれば」「偽善的」か「自己嫌悪」におちいるだけだ、というのです。

すでに見てきたように、日本人が現在まで持ち続けてきた、キリスト教に対する歪んだイメージを払拭したい、というのが『私の中のキリスト』他、井上神父の著作、全活動の根本動機であり、それはまた、あの<たとえ>による回心に触発されたものでもありました。(「風」第八三号三五頁参照)。それにしても、井上神父自身「不思議で仕方がない」(前掲書、序章)という、「キリスト教の歪んだイメージ」――この場合、律法主義的・道徳主義的キリスト教のイメージ――はどうしてできてしまったのか。歴史的な事情などは繰り返しになるので省きますが(『心の琴線に触れるイエス』第六章、また「風」第六〇号二八頁以下に紹介した久野晉良氏の論参照)、そこには、わたしたち求道者が「実践的指導書」としての新約聖書に対するときの根本的な問題があるのではないかと、考えさせられるのです。

キリスト信者のあいだで昔から聖書の次によく読まれているといわれる、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』という書物もありますが、問題は「新約聖書は実践指導書である」といったとき、キリストの何をならうのか、ということなのだと思います。下手をするとわたしたちは、『マタイによる福音書』の「山上の説教」をそのまま実行しようとする、無謀な完全主義者のようになり、この「良い知らせ」たる書物をあたかも旧約聖書の律法書、あるいはそれに替わるイエスの掟のリストとして扱ってしまう危険があります。

ではどうすればいいのでしょうか。井上神父は次のようにいいます。

<キリスト者が第一に努めなければならないことは、己を無にして神に全てを委ねたイエスの姿勢――そこからおのずから沸きでてくるイエスの個々の行為ではない――を少しでも自分の生き方の中に実現させていくために必要なことを行なうことである。>(二四〇~二四一頁)

ケノーシス的イエスの姿勢→個々の行為という流れのなかで、結果としての「個々の行為」に目を奪われず、源たる「イエスの姿勢」にまでさかのぼり、その姿勢を自分の中に実現するために「必要なこと」をせよ、というのです。ここにおいて、具体的な「行」が提唱されます。

四 「イエスへの凝視と祈りの姿勢」

この小見出しのとおりの言葉で、井上神父が提唱する「行」の具体がはっきりと示されます。

まず、『ルカによる福音書』一八章一五~一七節、『マタイによる福音書』一一章二五節などにより、前述のケノーシス的キリスト者の理想像が、幼子の道――

<天の風のまにまに己を委ね切って生きること>(二四二頁)

と、リジューのテレジアを髣髴させる求道性として目標づけられます。そこに「真の自由と平安と歓びが生まれてくる・・・・」と。そして、

<この境地への道は①「イエスへの厳しい凝視の目」と、そのイエスという鏡にうつっている己自らへの②「厳しい自己凝視の目」であり、そこから必然的に生まれてくる③「祈りと合掌の姿勢」である。>(二四三頁、丸番号は筆者による)

と、具体的な「行」の内実――「道」が示されるのです。そして右の「道」を歩もうとする者がそのまま、井上神父いうところの「キリスト者」の意味になります。すなわち、

<キリスト者とは、イエスの姿を凝視することによって常に自分の悲愛の足りなさに気づき、その自分をそのままの姿で包みこんでくださる神の無限の悲愛の心に感謝し、合掌し、少しでもイエスの心に自分を近づけてくださることを願っている者>(二五〇頁)

ということです。このような「キリスト者」の規定・定義にも、「キリスト者とはイエスを神の子、救い主と信じ・・・・」というようなものいいとはちがう、井上神父の「下からのキリスト論」的傾向がうかがえます。

 と同時にここには、先の①~③の三つの「行」の関連性、あるいは「道」の方向性が、よりわかりやすく説かれています。つまり、

①イエスへの凝視
②自己凝視=悲愛の足りなさへの気づき
③そういう自分をそのまま包み込む神の悲愛への感謝・合掌・願い=祈り

このような「凝視」「気づき」「祈り」という流れを井上神父はもう一度、「イエスへの厳しい凝視の目」と「祈りの姿勢」、この二つが「キリスト者に欠くことのできない根本的な行」としてまとめ、これらを
<忘れない限り、いつかキリスト者をあのイエスの姿へと少しずつ変貌させ近づけてくださるにちがいない>(二五二頁)

とキリスト者の希望を語って、このエッセイを結んでいます。

五 二つの注意と<たとえ>

さて、このように「行を媒介とする真の自己の獲得」について井上神父は、大変説得力のある話を展開しているのですが、ケノーシスから悲愛へと至るプロセスの中で二つの注意事項を上げています。一つは、前述のとおり、「イエスの個々の行為」ではなく、「イエスの姿勢」を学ぶように、ということでした。そして今ひとつは、その具体的な「行」として「自己凝視へとつながるイエスへの凝視」と「祈りの姿勢」が、

<車の両輪の如きものであって、どちらか一方を欠くということはきわめて危険な結果をまねくおそれがある>(二五〇頁)

ということです。

 前者については、もしこの忠告に反するならば、「偽善的」になるか「自己嫌悪」におちいる危険性が指摘されていました。また後者について、そのバランスを欠くと、わたしたちは「自己嫌悪」に悩まされるか、「自己本位」の願い事に終始してしまうと、神父はいいます。

 ここに指摘されている三つの言葉を振り返って見ましょう。

「偽善」――福音書に明らかなように、イエスが最も嫌ったものは、ファリサイ派や律法学者の偽善でした。

「自己嫌悪」――弟子たちの復活体験の前に、イエスを裏切ったがゆえの「自己嫌悪、恐怖感、不安・・・・」といったマイナスの感情があったことが思い起こされます(『すべてはアッバの御手に』一六頁)。

「自己本位」――エゴイズムに直結する態度であり、そうであれば井上神学では端的に、「罪」と置き換えられるものでした(同書、三九頁)。

こう見てきますと、わたしたちはたとえ善意であっても、悲愛を実現しようとしてつい右のような「偽善」や「自己嫌悪」や「自己本位」に陥り入りやすいということ、それは罪を誘うもの――罪の姿勢といえましょう。

<イエスの前に自分を立たせてみたとき、イエスの生涯は、ある厳しさをもって私たちに悲愛の心を要求する。それは、単なる親切とか思いやりとか人助けとかいった個々の行為を超えた、心の在り方そのものへの要求である。>(二四三頁)

<悲愛はこの(十戒:筆者注)のような意味での行為禁止の掟・・・・ではないということである。>(二四五頁)

<悲愛とは個々の行為にあるのではなく、その行為を生む心の姿勢にこそあるのである。>(二四六頁)

こうした悲愛の「完全」要求の前には、隣人愛を禁止掟ととらえて正当化する『ルカによる福音書』一八章の「ファリサイ派の人」の正当性は無力であると、井上神父は『ルカによる福音書』一〇章の<善いサマリア人のたとえ>を使って説明します。前述したようにこれについては、また項を改めて述べたいと思いますが、いずれにしろ、悲愛の完全要求の前には、人間がどんなにがむしゃらに「イエスの個々の行為」をまねても、どこまでも不完全でしかないということ。それは、テレジアが「行為でなく姿勢を」といったように、あちらが主体となって、無限性のおみ風様をお通し申し上げるほか、悲愛の完全性に応えるすべはない、ということです。

井上神父は、その具体が「徴税人の祈り」なのだというのです。

<それ(悲愛の命令:筆者注)はイエスの姿勢の前に自分を立たせ、そのイエスの姿勢を鏡として己自身の姿をそこに映してみる限り、いつでも自分の至らなさと醜さとに自分の胸を叩く税金取りの祈り(ルカの福音書一八章一〇節以下参照)を自分のものとして感ぜざるをえないような種類のものなのである。>(二四六頁)

六 悲愛へ導く「行」――「徴税人の祈り

悲愛へと導く、先にあげた「凝視」「気づき」「祈り」に集約される三つの行の先達として、「徴税人」の姿勢が推奨されているのです。

もう一度、「徴税人の祈り」を振り返ってみましょう。
<神様、罪人のわたしを憐れんでください。>(『ルカによる福音書』一八章一三節b)

この短い祈りのうち、「罪人のわたしを」(モイ・トー・ハマルトーロー)という部分は、先のキリスト者の定義にあった「イエスへの凝視による自分の悲愛の足りなさへの気づき」に通じます。しかし同時に、ここまで見てきたわたしたちは、その「罪人のわたし」を挟む(原文では直前の)、「神様、・・・・憐れんで下さい」(ホ・テオス、ヒーラステーティ)という言葉に、井上神父が定義したキリスト者のもう一つの属性、

<その(罪人の)自分をそのままの姿で包みこんでいてくださる神の無限の悲愛の心に感謝し、合掌し、少しでもイエスの心に自分を近づけてくださることを願っている者>

の姿――アッバへの絶対信頼の祈りが込められている、ということにも気づかされるのです。それはいいかえれば、ダメな自分に絶望しない――キリスト者の希望の姿でもあります。

 ちなみに、「ヒーラステーティ」(憐れんでください)というギリシア語は、「ヒーラスコマイ」という動詞の不定過去命令とよばれる形(受動態二人称単数)です。これは過去の意味ではなく、また現在命令とちがい、瞬間的動作の命令に使われる形です。すなわちここでは、罪人である自分を、「今そのまま憐れんでください」というニュアンスなのです(「お慈悲を!」岩波訳)。

こうして、どこまでも不完全なわたしたちは、先ほど見た「偽善」「自己嫌悪」「自己本位」といった罪の姿勢にときに傾きつつも、「徴税人の祈り」にならい、歩み続けるものとなるのです。

わたしたち「ダメ人間」になぜイエスがアガペーを説いたか――その「信仰の秘密」の一端は、頭を下げることを学ぶ程に、わたしたちが悲愛――「共に」生きるようになるからだ、ということをすでに述べました。ここではさらに、わたしたちが「徴税人の祈り」の姿勢を少しでも自分のものにすることによって、罪あるままに希望をもってイエスの心に近づけてもらえる――ダメ人間のままを受け入れ、変容させるアッバの働き――ここにも不可思議な「信仰の秘密」があるのではないでしょうか。(つづく)

category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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