「南無アッバ」を生きる ホーム » 連載「井上神父の言葉に出会う」 »(25)『イエスのまなざし』における<「ファリサイ派と徴税人」のたとえ>-2010年春「風」第84号

(25)『イエスのまなざし』における<「ファリサイ派と徴税人」のたとえ>-2010年春「風」第84号  

大地のように私たちを包むもの

次に、一九八一年に出版された『イエスのまなざし』を見てみましょう。この本は、前出『日本とイエスの顔』、『私の中のキリスト』あるいは『余白の旅』といった書き下ろしとはちがい、井上神父がさまざまな機会に発表してきた論文や短文をまとめた、初のエッセイ集です。一九六三年から一九七九年まで、十七年間に書かれたものを二部構成にして、それぞれ六本ずつ時代順にまとめられています。したがって、年代的には前諸著作より遡るものがほとんどです。件の<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>(以下、単に<たとえ>とも)については、二箇所で言及しています。

まず、第二部の三番目におさめられたエッセイ「大地のように私たちを包むもの」(『世紀』一九六八年一一月初出)には、次のように書かれています。

<またイエスさまの<パリサイ人と取税人>のたとえ話を思いだしてみましょう(ルカの福音書一八章一〇~一四節)。ゆすりもしないし、姦淫もしないし、二度断食し、よく神殿の維持費をおさめているパリサイ人が、この取税人のようでないことを感謝しますといって神殿でお祈りしたのにたいし、取税人のほうは、「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください」といってお祈りをしたのです。そしてイエスさまは、この取税人のほうをみこころにかなう者だとおっしゃいました。

イエスさまが一番のぞまれたことは、私たちが心から素直に、天の御父の御前に頭を下げる姿勢だったように思われます。>(一七四頁、以下同書からの引用は頁のみ記載)

ここには、「頭を下げる」ことこそが、イエスが第一とした姿勢であることが明言されており、最初に見た『日本とイエスの顔』の聖書敷衍訳部分と同じ主張がなされていると考えられます(「風」第八一号三七頁)。すなわちそれは、自らを「ひかえる」ケノーシス・タペイノース的姿勢の奨励です。この直後に、『ヨハネによる福音書』八章のペリコーペ<姦通の女>での言葉で、「他人をさばく」ことが、「頭をさげる」姿勢と真っ向から対立することを強調しているのも、前掲書と同様です。

ただここでは、右に述べたように、この神学的エッセイ「大地のように私たちを包むもの」が、前作までのような書き下ろし単行本の一章ではなく、もともと独立した文章としてカトリック雑誌に掲載されたものである、という点に注目したいと思います。たとえこれが、一四ページ程の短いエッセイではあっても、否、それだからこそ長い文章とは違った意味で、神父の主張が凝縮されていると思われるからです。このなかで、井上神父が何を言おうとしているのか、その文脈のなかで、<たとえ>がどのような位置にあるかを、探ってみましょう。これまで見てきた諸著作における、<たとえ>の占める位置とは違うものが見えてくるかもしれません。

先に述べたように、このエッセイが書かれたのが一九六八年ということであれば、井上神父の最初の著書『日本とイエスの顔』出版から遡ること八年前、ということになります。とすれば、おそらく、当該<たとえ>に言及した文章して、まとまった形で残っている最古のものとなるわけで、その意味でも興味深いものがあります。

そしてもう一点、拙稿を第一部からお読みくださっている方はお気づきかもしれませんが、六八年といえば、神父の『キリスト教から見た死の意味』という小論が書かれた年でもあるのです(拙著『心の琴線に触れるイエス』六七頁以下参照)。このなかで神父は、「死は人生の完成の時」である、という希望に満ちた論考を展開しています。しかし同時に、拙著でも指摘したように、この時期(一九六六~七〇年)は、日野の豊田教会に主任司祭として赴任し、さまざまな現実的問題に直面して苦労していたときでもあります。具体的に、日本人キリスト者・求道者を目の前に、共に考え、共に生きなければならない、という立場にあったのです。わたしは、そのときの心情が『キリスト教から見た死の意味』と同様、この時期に書いたエッセイ「大地のように私たちを包むもの」にも、微妙ににじみ出ているのではないかと思うのです。

日本人の神様

このエッセイは四つに分かれ、それぞれには次のような小見出しが付されています。

日本人の神様
大地いじょうのかた
十字架
東と西を越えるもの

分量的には各々一~三頁程ですが、二番目の「大地いじょうのかた」だけは七頁に及んでおり、<たとえ>はこのなかで言及されています。

まず「日本人の神様」で、「ある学生」が井上神父に言った言葉からこのエッセイが起こされます。その要旨は、〝宗教は死ぬときに考えるものであって、それまでは精一杯生きればいい。宗教が掟や約束で人間を縛るのは悪だ〟というものです。

しかし神父は、この「身勝手な考え方」によって、「日本人のものの考え方」や「感じ方」にふれた気がする、といいます。

<キリストをじっと見つめることをやめずに、しかも私のもつ日本人の感覚を大切にして生きぬいてみること――これが私の残りの人生に課せられた課題だと思っているのです。>(一六八頁)

直後このように述べ、一般的な日本人が持っているふつうの感覚を大切にしながら、二つのJ――日本人とキリスト教を生きようという決意を表明しています。このあたりに、さきに述べた状況にある井上神父の心情が、垣間見えるように思います。

そして、堀辰雄の「大和路信濃路」の一節や「自然はいつもやさしく私をつつんでくれます」といった学生の言葉に共感しながら、最初の項をまとめます。

<私にとっても、神さまというのは人間のように自分の前に立ちはだかり自分を問いつめてくるものではなく、自ら神さまの地位にとってかわろうとしないかぎり、どこまでも私を暖かくつつみこんでくださるかたなのです。大地のように大きく、暖かく、すべてをつつみこんでくださるかたなのです。・・・・そして、苦しめられても傷つけられても、神さまの地位にとってかわろうとしないかぎり、最後には暖かく私たちをつつんでくださるその神さまの愛の光のうちに素直に頭を下げること――そこに・・・・深い喜びと生き甲斐が生まれてくるのだと思います>(一六九~一七〇頁)

ここには、神はわたしたちに寄り添い、大地のように大きく包みこんでくださっているのだ、という日本人的とも東洋的ともいうべき、即自然的神観がはっきりと示されています。そして右傍線部分に注意してみると、こうした暖かな神の対極にあるものとして「自分の前に立ちはだかり自分を問いつめてくる」ような人間が措定され、また神の愛に包まれる条件として、「自ら神さまの地位にとってかわろうとしないかぎり」ということが繰り返し述べられていることに気がつきます。

他者の前に「立ちはだかり、問い詰めてくる」人間、「神の地位にとってかわり」他者をさばく――これこそイエスが最も嫌った、唯一の罪、エゴイズムといってよいでしょう――それは、あたかも「徴税人」を尻目に、神殿の前の方で祈りをささげていた、あの「ファリサイ派の人」の姿ではないでしょうか。それに対して、神の悲愛の光のうちに、「素直に頭を下げる」人間とは、あの「徴税人」を髣髴とさせるのです。

このように「日本人の神様」は、日本的感性になじむ神観を展開しながら、次項で言及する<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>を先取りした形でまとめられていることがわかります。

大地いじょうのかた

前項を受けて本論となるのが、最も頁を割いている「大地いじょうのかた」です。

ここに特徴的と思われるのは、「傷つける」「傷つけられる」といったように、「傷」という言葉を多用していることです。拙稿第二二回の結びで、井上神父が『日本とイエスの顔』のなかで、『ルカによる福音書』一八章の当該<たとえ>を脚注引用しながら記述している箇所について、わたしは次のように述べました。すなわち、「他人を審くことに心の痛みを覚えぬ程に傷つき汚れている」という、労いともとれる物言いに、罪人――新約聖書中であれ、わたしたちに対してであれ――に向けられた神父のまなざしは、静かなやさしさに満ちており、そのまなざしは、イエスのそれを彷彿とさせるものである、と。本項の「傷」はこの「傷」に結びつくものと思われます。

ですから、ここではこの言葉を手掛かりに、<たとえ>に至る神父の考えをたどってみたいと思います。

まず、神は「私たちの前にあるものではない」――対象化して理性によって把握できるものではなく、むしろ「後ろから下からすっぽり私をつつんでくださるかた」であることを確認します。このあたりには、西欧的な個と個の対立を前提とした神学ではなく、いわるゆ「場の神学」が提唱されていると思われます。それが「自然のふところ」といったかたちで結びつく点に、井上神父の汎在神論の特徴を見ることができます。

ところが、その「自然は私たちを傷つけることはなく」また「私たちに傷つけられることもない」。したがって、自然は「一時的に私たちの心をいやしてくれ」「甘えの感情を満足させてくれ」ても、「大地のような心にまで近づけ高めてくれることはない」といいます。神父はここに、「自然」そのものの、わたしたちに対する限界を見ているのです。

これに対して「人間」は、互いに「傷つけ」たり「傷つけられ」たりもするが、「いやし」「いやされる」関係でもある――心の交流によって、「私たちを高め」あるいは「ひき下げる」ものだといいます。つまり、「傷」と「いやし」という視点に立つと、自然と人間は互いに一方的であるのに対し、人間同士は双方向的であるということです。

そしてこれら「自然」「人間」との比較において、三番目に「神さま」について言及します。

<神さまとは、私たちによって傷つけられつつ、しかもなお、どこまでも頭を下げる私たちを暖かくつつみこんでくださるかたであり、かわることのない平和と喜びの大地のような心にまで、傷つけられることによって、やがては私たちを高めてくださるかたなのです。>(一七二頁)

これらを整理してみます。

①自然と人間・・・・一時的「いやし」をもたらしてくれても、「傷つけ」「傷つけられる」関係にはない。――人間を高めることはない。

②人間と人間・・・・「いやし」「いやされ」また「傷つけ」「傷つけられる」関係。――人間を高めもひき下げもする。

③神と人間・・・・神はわたしたちに「傷つけられつつ、しかもなおどこまでも」「あたたかくつつみこんでくださる」――御自身傷つけられることによって人間を高めてくれる。

この三者の関係については、最後の章「東と西を越えるもの」でもとりあげられます。すなわち、①「人間――自然」は「甘えと陶酔の関係」であり、その「延長線上に人間――神という関係をとらえたのが、美と情を中心とする日本の精神風土の伝統である」。また、②「人間――人間」は「恐怖と対立の関係」であり、その「延長線上に人間――神という関係をとらえたのが、知性と分析を中心とする西欧の精神風土の伝統であった」。

そしてこの二つのとらえ方に対応する神のイメージを、次のように具体的に示します。

①「悪いことをしたって何をしたってかまわない。隣人を傷つけてもいい、なんでもそのままゆるしてあげる」というかた。

②「いくらあやまったって、行ないがなおらなければ決してゆるしはしないぞ」というかた。

これは、信仰か行いかという、古くからいわれている問題を想起させるものですが、神父はそのどちらも「おかしい」といい、結論として、次のようにまとめます。

③<この両方ともに一面的であって、真の人と神さまの関係はもっと動的なものであり、人間――人間の関係のようなものとして初めは出発しながら、人間が自己の汚濁の深さを自覚し、それを神さまの前に投げだすことによって、それによってのみ、最後に、人間――自然のような、しかし、もはや甘えという言葉によってあらわすには不十分な関係に高められていくものなのです。>(一八〇頁)

真の「人間――神」の関係は、「人間――人間」のような関係から出発し、単に甘えとはいえない「人間――自然」の関係へと高められる、すなわち、①、②の関係が昇華されて③の関係へと変化する、そのように「動的」――ダイナミックなものだといいます。

ここで注目すべきことは、そのように「高められる」――昇華される契機となるのが、右傍線「自己の汚濁の深さを自覚し、それを神さまの前に投げだすこと」だといっている点です。この点を神父は「それによってのみ」と強調し、次のように、このエッセイの結語においても繰り返しています。

<愛とは、小我の殻を突き破って、相手と生存をわけあうことです。そして小我の殻を突き破るためには、私たちは私たちをその殻のなかにとじこめている、どろどろとこびりついた汚濁を自覚し、それを素直に神さまの前に投げださなければならないのです。>(同)

自己の汚れを自覚すること、そして、それを神の前に投げ出すこと、この二点が、小我の殻を破って、相手と共生する「(悲)愛」の関係に不可欠だという結語をもって、このエッセイは終わります。

<アッバ、利己主義に汚れているわたしたちの心を、あなたの悲愛の息吹きで洗い清めてください。>

他所でもすでに紹介しましたが、「汚れの自覚」と聞いたとき、毎月の南無アッバミサにおいでくださっている方は、「風の家の祈り」の、この祈り出しをすぐ思い浮かべることでしょう。利己主義、エゴイズム、すなわち罪の自覚ということも、またそれが「悲愛の息吹で洗い清め」られるために、「素直に神の前に投げ出す」ことも、やはりケノーシス・タペイノース的姿勢があってはじめて可能となります。

ここでも、前項「日本人の神様」で先取りして述べられていたように、「神さまにあたたかくつつみこんで」いただくためには、「どこまでも頭を下げる」という、ケノーシス・タペイノースに連なる、あの「徴税人」の謙虚な姿勢が大切であるということが、繰り返されるのです。
 
罪の自覚と十字架

ところが、言うほど簡単に謙虚な姿勢をとれないのがわたしたちの現実です。どうすればわたしたちは、このように「素直」な姿勢に少しでも近づけるのでしょうか。この点について井上神父は、エッセイの中でわたしたちに大きなヒントを与えてくれます。「大地いじょうのかた」に戻って見てみましょう。

<どこまでも、どこまでも、私たちをつつみこんでくださる神さまが天の御父であり、私たちによって傷つけられておられる神さまが、十字架の御子イエスさまの御姿なのではないでしょうか。>(一七二頁)

神父は、自然相手のように一方通行でもなく、人間同士のようにお互い様の関係でもない、神はわたしたちに傷つけられつつ、なおわたしたちを暖かく包みこみ、やがて高めて下さる。その神の姿こそ、十字架のイエスの姿だといいます。エッセイ中、ここではじめて「十字架」に言及します。そしてこのあと「十字架」という一項目も置いています。

ここで再び、『フィリピの信徒への手紙』二章の「キリスト賛歌」を思い出してみましょう。イエスのケノーシス的姿勢はその十字架をもって最高潮に達したのでした。そしてそれは、わたしたちの救いの根拠となるイエスの「人性と神性を結び合わせ、統合する要」でもありました(拙著『すべてはアッバの御手に』一六九頁以下参照)。

エッセイではこの十字架の「御姿」に気づくために、

<・・・・人は何等かのかたちで、つねに他人を傷つけ、苦しめながら生きているのだという厳粛な事実に私たちは、思いをはせるべきだと思うのです。

そこに初めて、十字架上のイエスさまの御姿が私たちの前にあらわれてくるのです。>(一七三頁)

と述べています。

すなわち、日常のなかで「あまりにも身近な大事なことを忘れがち」なわたしたちが、いま、思い起こさなければならないものは、「つねに他人を傷つけている」自分の姿であり、その「傷つけ」「苦しめ」ている「厳粛な事実」が、イエスの十字架に結び合わされていく契機になる、と説いているのです。

この直後井上神父は、マタイによる福音書九章一三節、

<わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです>

という、イエスの言葉をあげるとともに、ここで初めて<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>に言及し、

<イエスさまが一番のぞまれたことは、私たちが心から素直に、天の御父の御前に頭を下げる姿勢だった>(一七四頁)

と述べます。そしてさらに、『ヨハネによる福音書』八章の<姦淫の女>や『ローマの信徒への手紙』二章の言葉を引用し、人をさばくことがイエスの愛から遠いことにも触れます。

<どんなに正しいことをおこなっていると自分で思った時でさえ、私の中には、どろどろとした汚い身勝手な世界がこびりついているのであり、またそれによって傷つけられている人々がいるのだということ、多くの場合それさえ気づかずに自らのみを正しいと思いこんでいるということ――このことを身にしみて私に教えてくださったことに、最近私はしみじみと十字架のイエスさまの私への愛を痛感しているのです。>(一七五頁)

「それと気づかない」罪の無意識性、また「身勝手な」罪の他者性ということについてはすでに述べました(第二十二回)。さきほどは、こうした事態によって、わたしたちが他人を傷つけ、苦しめながら生きている事実に「思いをはせる」とき、「そこに初めて」十字架上のイエスの姿が現前すると述べられました。しかしここでは逆に、罪の無意識性や他者性によって他者を傷つけていることを「私に教えてくださった」のが、とりもなおさず「十字架のイエスさまの私への愛」なのだといっているのです。

他者を傷つけていることが「厳粛な事実」であり、そこに「思いをはせるべき」ではあるのですが、わたしたちは――それこそ罪の無意識性・他者性のゆえに、自分の力で十分に思いをはせることができないのです。かえって、わたしたちがイエスの「十字架の死」を思いめぐらすことによって、罪の深さを知るということ。

<たとえ>はこの罪の自覚と十字架の関係をちょうど逆転させる位置におかれ、その役割を果していると思われるのです。逆も真なり。現実には、人を傷つけていることへの思い=罪の自覚→十字架、十字架→罪の自覚、この双方向の繰り返しによって、わたしたちは次第に、

<人を傷つけながら生きているということは、とりもなおさずイエスさまの御心を傷つけながら生きているということ>(同)

にほかならないということを知るようになるのではないでしょうか。そして、

<そこにはじめて、深々と頭をさげる信仰の姿勢が生まれてくるのでしょう>(同)

(つづく)
関連記事


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/1468-27d2a3c9
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop