「南無アッバ」を生きる ホーム » スポンサー広告 » 求道詩歌誌「余白の風」 »第172号 2010年4月発行

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

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第172号 2010年4月発行  

*本誌は、井上洋治神父の提唱する日本人のキリスト信仰を生きるため、詩歌を中心として、共に道を求め、祈り合うための会誌です。

井上洋治神父のうた

ホームに立って/電車待つまに南無アッバ

向かいの席 むきだしの少女の白い腿に/思わず目を閉じ南無アッバ

*「主の祈り」よりもっと短い「南無アッバ」の祈り。六字名号「南無阿弥陀仏」よりもまだ短い。だから「電車待つま」も「向かいの席」が気になっても「南無アッバ」。「祈りは長さではない」とは、よく神父様の言われることです。


作品とエッセイ(*主宰句評)

豊田市  佐藤淡丘

初蝶や信じる高さ決めてをり

置き去りのトロッコのあり春の泥

亡郷や父に直足袋春の泥

遥かなる声をかぎりの芽吹きかな

雪柳通用門は半開き

 ときおり、プロテスタントの教会の祈祷会に出て、牧師先生の話を聴くことを楽しみにしています。先週はレント(受難節)の祈りの会でしたが、次のような話があり心に深く沁みたものでした。

「神さまの愛は感傷でも同情でもありません。神さまの御子(イエスさま)が代りに死ぬことで高い代価が払われた。絶対的・具体的な愛です・・・・」と。

 なるほど、その通りなんだ、安価なものではないのだと今更のように分かりました。どうか信仰をもっと、もっと強めて下さい、と祈るひとときでもありました。

*第一句、信仰の逡巡。第二、第三句、「春の泥」に痛みがあり、受難節にふさわしい作品になりました。第四句、ゲッセマネの園から十字架、そして御復活へとつながる一句。第五句、「半開き」の「通用門」にリアリティ。


秦野市  長谷川末子

 春
花芽が今朝の初桜/枯木に見えた幹の裏/細い枝先根元にも/こんなにこんなに美しい//鶯数羽飛んで来た/美声が起こるあちこちに/枝から繁みに飛び移り/うっとり過ごす二時間を//土筆が二本いえ十本/広い草原日がぬくい/固い帽子は幼くて/白い帽子は私かな//春風吹いて花咲いて/小鳥の囀り薄霞/主の御恵みに目をみはる。

*こちらも、今は桜が満開。華やかなようで、どこか悲しくて、妖しくて・・・・桜は不思議な花だと思います。やはり、日本の詩歌を詠むにピッタリの花ですね。掲詩、春の自然にとけあう「私」と「御恵み」。


  聖週間        蓮田市  平田栄一

曇天の枝の主日の枝を持ち吾が内にある罪の確かさ  受難の主日

主のもとに集いし人の数多あり吾らと同じ思惑もちて  受難の月曜日

裏切りし弟子を見つめるまなざしは朧の月をこえてさやけし  受難の火曜日

ユダにつき「生まれなかった方が・・・・」とうイエスの言葉いまも謎めく 受難の水曜日


三原市  荒木千恵子

紅椿ぽつり舞い落ちアッバの土に

白椿葉かげに憩うめじろたち

*千恵子さん、御出句ありがとうございます。素直な詠いぶりに好感。第一句、下「アバの地に」とか「アッバの地」など、この場合は、定型でまとめた方がリズムがいいと思います。


名古屋市  岩崎姫公子

水仙の祈る姿や浄き雨

碧き空溶けゆくさまや白木蓮

野外ミサベールの上に雪とまり

赤きストラ神父の肩に雪はげし

蓬餅施設の母は季(とき)を食む

受洗待つ友輝いて花芽吹く

*姫公子(きくこ)さん、はじめまして。御出句ありがとうございます。第五句、「季を食む」が効いています。「蓬餅」を頂いて、まだまだ「がんばるぞ!」というお母様のバイタリティを感じます。


練馬区  魚住るみ子

蕗の薹二つ三つまたあそこにも
     光
ひかりにあゆめよ尊きみ教えの歌声満てり佳き日聖堂(みどう)に

*「ひかり」は復活の象徴。ふきのとうやつくしも、その喜びに次々と若芽を萌え出だす。


名古屋市  片岡惇子

花の芽や天を切り削く枝の息

沈丁花目を見開いて闇を解く

春泥や天国の鍵呑み込んで

寂しいと言えば人去り雪柳

白木蓮否定されては散りゆきぬ

涙の種蒔いて祈るや土香る

 御ミサの後「夜七時の十字架の道行は、来る方が少ないので止めます」神父が宣言。「九時までは、御聖堂を開けておくので自由に」と。御聖堂で外国人の青年をお見かけしたので、私は続けることを伝えました。彼は一言「残念ですね」と言われました。

一週目の金曜日。朝からの雨が夕方からは、どしゃぶりとなっていました。御聖堂で祈っている彼がいました。毎週二人だけの「十字架の道行」が続きました。はじめて言葉を交わして、彼がアメリカから技術者として日本に来て六年。日本語は、技術用語ばかりの仕事の中で覚えただけとのこと。それでも私が先唱し、彼が後を祈るのに、流暢に続けられます。

今年の四旬節は、イエス様の十字架の道をよく黙想出来ました。何よりも二人だけでしたが、共に祈ることが出来た方がいらっしゃったことは、この上ない喜びと希望でした。

*「十字架の道行」をとおして、すばらしい出会いがあったのですね。祈りも求道詩歌も同じ。共に歩む仲間がいると、ほんとうに心強い。私も理屈でなく実感しているところです。


大和市  佐藤悦子

還暦路南無キリストよわが道よ

病む脚は主と共にあることの安らぎよ

*悦子さん、はじめまして。御出句ありがとうございます。二句ともストレートに素直な信仰が表現されていますね。第一句、「路」と「道」の重なり、第二句、「ことの」を推敲されると、より良いと思います。



講座「井上神父の言葉に出会う③」5月22日(土)
13:30~四谷ニコラバレ・受講料千円・平田まで



人も変わる、教会も変わる:平田栄一

(南無アッバミサ前講話(抄)〇九年十二月十二日於ニコラバレ聖堂)

母は、わたしがカトリックの洗礼を受けたいと言ったときには、強く反対しました。どうしてあんなに反対されたのかな、と今振り返ってみますと、ある宗教団体にかかわっていく、そうするとなんというか、あらぬ方向へ、息子が行ってしまうのではないか、そういう心配をたぶんしてたんだと思います。

ところが実際井上神父様にお会いしたり、神父様のテレビを見たり、ラジオを聴いたり、あるいは、わたしも『俳句でキリスト教』(121頁)という本にちょっと書きましたが、フランス人の神父様で日本の文化に非常に理解がある方がいて、そういうことを父母が見ていて、だんだん変わっていったんです。

父母は信者にはなりませんでしたが、姉が後に信者になったこともあって、いまでは実家を家庭集会に開放したり――。まあ、人間というのは、いくつになっても変るもんだなーと感心しています。

そういうことで、先日母が入院したときも、「南無アッバ」のお守り札をもっていったんです。そしたら、もう喜んで、枕の下に置いて、何度も確かめていました。有難い、有難い、の一点張りで。頭じゃないんですね。「南無アッバ、南無アッバ」って毎日やる、文字に書く――わたしも手紙だ、メールだ、サインだ、と機会あるごとに書く。唱える。

そうすると、ほんとうになじんでくる。ナムもアッバも、これは音声的な組み合わせもあるんでしょうか、何か懐かしい故郷の言葉みたいな気がしてくるのです。井上神父様も、日本人のそういう郷愁みたいなお心がずっと積もっていって、一九九九年初夏、突然のように「南無アッバ」と出てきたんじゃないでしょうか。

お札は、私もあちこち配ったり、それこそ今回、母の入院の時にも、痛感しましたが、お祈りもなにもできない状態になったとき――これは他人事じゃない、あるいはうちの母のように、いわゆる信者じゃない、そういう人にも、「携帯電話のようにそばにおいてください。私が代わりにお祈りしますから」といえば、信者、未信者関係なく、まず理屈なく喜んでもらえる。

そういうお祈りの即物性というか身体性というか、日本人にはとくに大切な要素なんだと思うようになりました。ですから、わたし自身も、変えられたんです。アッバによって変えられるんですね。

そして、ここに今日おいでくださっている方たち、以前は予想しなかったような方々――広谷先生や小宮山先生や多くのプロテスタント、求道者の方々の参加、これも、このミサ、いや日本のキリスト教が変わりつつある、変えられつつある証拠です。

さらに、最近うれしかったことは、カトリック新聞です。この12月13日号とその次の号に、「井上洋治神父の模索~日本人の心の琴線に触れるキリスト教を求めて」という題で、よくまとまっています。わたしもたいへんうれしいですが、これも時代が変わった、変えられたのだと思うのです。

マリア様は、イエス様をご体内に宿された時、わからないままに、きっと不安でいっぱいだったでしょうが、そのままに「fiat mihi お言葉のとおり、この身になりますように」(ルカ1・38)とおっしゃった。これはマリア様の「南無アッバ」です。そしてアッバのお言葉が実現していきます。

待降節中のミサの叙唱には「(主が)栄光を帯びてふたたび来られるとき、いまわたしたちが信頼してひたすら待ち望んでいることは、すべてかなえられます」とあります。

わたしたちも、だめかもしれない、たぶんだめだろうと落胆するときこそ、「にもかかわらず」「南無アッバ」「南無アッバ」と祈って行く、必ず神さまは良い方向に変えてくださるのだと信頼して、お任せする、そういう心を新たにしたいと思います。

アッバ、アッバ、南無アッバ
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*初心の方はもちろん、どなたでも、賛同される方の参加をお待ちしています。(原稿採否主宰一任)
*締切=毎月末 *年会費二千円(半年千円 誌代送料共)
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