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(24)『私の中のキリスト』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>-7.軽み・和らぎの福音  

以前わたしは、拙著『俳句でキリスト教』(サンパウロ)のなかで次のように述べました。僭越ながら、少しく引用させて頂きます。

<ひとことでいうなら、従来のキリスト教のイメージは堅くて重いのです。・・・・この「堅さ・重さ」がネックになってイエスの福音の本質にたどり着けない。たどり着く前に門前払いをくわされてしまうのです。・・・・

それに対し井上神学は、俳句的用語を使うなら「軽み」があり、気負いがないのです。井上神父の説くイエスは、かぎりなくやさしい。どんな人間でもまず受け入れてくださる。人の罪を数え上げて相応の償いや改心を迫るようなことはありません。これは遠藤周作氏の説く「同伴者イエス」とも一致します。そのイエスに信頼し、イエスとともに「アッバ」と叫んですべてをお任せする。端的にいえば、福音の本質はそれだけです。

ただし「軽み」は軽薄とは違います。俳句初心の頃というのは、おしなべて気負いが先立ち、出来上がった作品は観念的で、ごてごてしていて、重くなるものです。しかしあれこれ試行錯誤、苦心惨憺、句作を積み重ねていくと、いつのまにかその重さを突き抜けて、「ふわっ」と軽みが出てきます。わたしは日本のキリスト教も、そろそろこうした「軽み」が出てきてもよい時期に来ているのではないかと思うのです。

本文でも述べたように、「福音」とはなにより「よき知らせ」、喜びの告知です。ですから喜びや安心のない、がむしゃらな信仰というのは勇ましいかもしれませんが、どこか無理があるように思えてなりません。・・・・>(二六四~二六五頁「インカルチュレーションの方向性――あとがきにかえて」)

井上神父が自力から他力信頼へ、「イエスとともに〝アッバ〟と叫んですべてをお任せする」「南無アッバ」の境地へ向かう――求道上の「緊張」や「堅さ・重さ」「気負い」を脱して――突き抜けて、「軽み」、「和らぎ」「安らぎ」へと向かうということ。それは本質的に受け身的な姿勢であり、ケノーシス・タペイノースに通じる生き方といえましょう。

その一八〇度の転換点に、かの<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>が大きく関わったということ、それは間違いのない事実のように思います。(つづく)
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