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(24)『私の中のキリスト』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>-5.タルムードの祈り  

 今しばらく『私の中のキリスト』の文脈をたどってみましょう。井上神父は「青春の迷い」を語ったあと、再び福音書に戻ります。そこで「イエスを十字架に追いつめるパリサイ派」と題して、「イエスともっとも鋭く対立し」た彼らがしていたタルムードの祈りを、次のように引用します。

<「主、わたしの神よ。町角に座する者たちと共にではなく、学舎に座する者たちと共にいることのできるように、私の境遇を定めてくださったことを感謝いたします。私も朝早く起きますし、彼らも早く起きます。

しかし、私は律法の言葉のために早起きをしているのであり、彼らは無価値なことのために早起きをしているのです。・・・・私は来るべき世における生命のために走っているのであり、彼らは墓穴に向って走っているのです。」>(五三頁)

 この祈りは、「神への感謝とだらしない人間への軽蔑という点で、実によくパリサイ派の精神をあらわしている」ものだと、神父はいいます。そしてこれこそ、あの「ルカ一八章のイエスのたとえ話のなかのパリサイ人の祈りを、そっくりそのまま思い出させる祈り」であり、この姿勢がイエスのアガペーと真っ向から衝突することになったのだ、と指摘しています。

 このあと井上神父は「飛鳥とガリラヤの風土」を比較し、

<ユダヤ教を生んだユダの荒野やエルサレム近郊の風土と、イエスを育てたガリラヤ地方の風土のちがいは、ガリラヤと飛鳥のちがいよりもさらに大きなものなのではないか>(五四頁)

<私がほっと息をつくことができたのは、イエスの育った地ガリラヤに行ってからで、特に先ほど述べたイエスの宣教の根拠地ガリラヤ湖畔での半日に、やっとほのぼのとした自然の暖かさを感じとることができたのでした。>(五六頁)

などと、第一章「ユダヤ教とヘレニズム」において個人的体験――実感にもとづいて語っています。
これ以後、『私の中のキリスト』では、明示的にルカ一八章の<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>が語られることはありません。
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