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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

(24)『私の中のキリスト』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>-4.「青春の迷い」への共感  

『私の中のキリスト』第一章では、この項の直後に、やや唐突の感をもって井上神父は「青春の迷い道」という項目を置いています。それがどんなものであったかは、すでに述べましたが(『心の琴線に触れるイエス』七一頁以下「生涯を決定づけた問い」)、ここではそれを次のように語っています。

<――第二次世界大戦もたけなわの昭和十八年、・・・・私の心は内面化し、すさみ、どうしようもない袋小路へと追いこまれていった。

私自身、何が一体このように深い不安と焦燥とに私を駆り立てるのかがわからなかった。私には戦争の意義や勝ち負けなどどうでもよかった。ただ私はこの不安と焦燥からぬけだす道を見つけたかった。・・・・

生きているということは一体どういう意味があるのだろう、何億光年というこの広大な宇宙のなかで、一個の星に過ぎないこの地球も、いつかは冷えて死滅し、宇宙の塵となっていくのだろう、そのなかでみれば、ほんの一瞬の閃光にしかすぎない私の人生などというものは、結局は一つの偶然の発生でしかないのだろうか。

私の未来にとってただ一つ絶対確実なこと、それは私はいつか必ず死ぬということだ。死とは本当に私の存在の終焉なのだろうか。私がなくなってしまうということは、一体どういうことなのだろうか。

わからなかった。私にはいくら考えてみてもわからなかった。
道がない、道がない、そう心のなかで叫びながら、私は暗い夜の道を歩き続けていた。――>(四九~五一頁)

 このように井上神父は、戦争中に過ごした「青春の迷い」を振り返って、当時の心境をくわしく語っています。わたしがこの本をはじめて読んだのは、たぶん一九八〇か八一年(二五、六歳)、井上神父に出会ってからですが、右の引用部分には一読目に傍線を引いた跡があります。

親子ほどの年齢差があっても――実際わたしの母と神父は同い年です――またわたしのような戦争を知らない世代であっても、同じ「青春の迷い」という点でこの部分にはストレートに共感したのでした。この迷いが、のちに井上青年を神父の道へと導く要因の一つとなるのです。

category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 聖書・キリスト教

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