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(24)『私の中のキリスト』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>-3.ガリラヤ体験  

序章「死海のほとりで」につづく『私の中のキリスト』第一章では、旧約の歴史を語りながら、洗礼者ヨハネに弟子入りしたイエスの心の変化について、井上神父は次のように推測します。

<エッセネ派および洗礼者ヨハネの極端な律法主義と禁欲主義に対する拒絶の精神が、この荒野のさなかに立って故郷ガリラヤの美しい空を想ったイエスの心にも、次第に成長していったのではなかったでしょうか。>(四五頁)

この発想がのちに、「旧約思想の否定と超克」(『わが師イエスの生涯』三一頁ほか)という、井上神学の重要なテーゼとして実を結ぶことになるわけですが、ここでは「ガリラヤの白い雲」をながめ、「イエスの微笑」を想いながら、パレスチナ内陸のなかで唯一地中海性気候であるガリラヤ湖畔で過ごした神父自らの体験的実感を、次のように結んでいます。

<目をつぶり、湖面から吹いてくるさわやかな微風を頬にうけながら、しあわせな思いにみたされて、私はこの柔らかな湖のほとりで、かつて群衆に説教していたであろうイエスが、今私に微笑みながら語りかけておられるような錯覚をすらいだきそうな思いでした。それは私の生涯を通じて、私が気づかないどんなときでも、キリストは私と一緒に歩んでいてくれたのだという一種の安堵感にも似たしあわせな思いでした。>(四九頁)

こうして神父は、〝ガリラヤ体験〟ともいうべきパレスチナ旅行のなかで、その「柔らかな湖のほとり」の自然に触れることを通して、「イエスの微笑み」、共に歩むイエスを実感していきます。井上神学がことに自然・風土的要素を重視しながら展開されていく〝体感的神学〟とでもよべる素地が、こうした神父の実体験に起因するということを、わたしたちは知ることができます。
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