「南無アッバ」を生きる ホーム » スポンサー広告 » 連載「井上神父の言葉に出会う」 »(24)『私の中のキリスト』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>-2.<たとえ>に触発された動機

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

スポンサーサイト  

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

category: スポンサー広告

tb: --   cm: --

(24)『私の中のキリスト』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>-2.<たとえ>に触発された動機  

『日本とイエスの顔』を出した井上神父は、その直後に『私の中のキリスト』を発刊しています。この本は現在、残念ながら絶版になっており、新しい人の中にはお読みでない方も多いかと思いますので、少しくわしくみていくことにします。

この中で神父は、<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>を引用しながら、次のように語っています。

<私自身信者になってから数年というものは、自分ではイエスの教えを生きようとしているつもりで、実はパリサイ派の姿勢に近づいてしまっていることに全く気づかなかったのでした。

フランスのリヨンの町の灯りがきれいに見おろせるフルビエールの丘の修道院の一室で、ある夜読んだ次の『新約聖書』の一節が、私にそれまでの生き方の間違いを教えてくれたのでした。>(二二頁。以下同書引用は頁数のみ記す)

これは、日本において、「イエスの姿勢とはおよそ縁遠い、イエスの敵対者(ファリサイ派:筆者注)のイメージが何故キリスト信者のイメージになってしまったのか」(二一頁)という自問の直後の告白です。

ここでわたしたちは、井上神父のこの回心体験が、リジューのテレジアに出会い、その生き方・求道性に惹かれてフランスへ渡ってから、なお数年を経た後のことであったということに、注目したいと思います。

<弱ければ弱いほど、みじめであればあるほど、不完全であればあるほど、神はその人を愛してゆたかな恵みを下さるのだ。童心に立ち返って、只ひたすらにこの神の深い憐れみの愛を信頼すること――それだけでよいのだ。エゴイズムや汚れなどというものは、神のふところに飛び込みさえすれば神がご自身できれいにしてくださるのだ。>(七三~七四頁)

ダメな人ほど愛してくださる神に信頼するということ、それは「人を見下し、裁く」ことからは最も遠いことのように思われます。しかし、この「幼子の道」を貫いたテレジアに惹かれた神父でさえ、<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>からの気づき――回心体験に至るまでには、数年の歳月を要したということなのです。

井上神父がテレジアに出会ったのが一九四七年、当該回心体験がリヨンでのことだとすると一九五三年、ローマでのことだとすれば一九五四年で、その間六,七年が経過していることになります。

このことは、わたしたちの求道生活に大きなヒントを与えてくれているように思います。それは第一に、わたしたちが「自分ではイエスの教えを生きようとしているつもりで、実はパリサイ派の姿勢に近づいてしまっている」――ファリサイ的な律法主義、あるいはそこから生まれる、「人を見下し、裁く」というエゴイズム=罪に、いかに陥りやすいか、ということ。

第二に、罪の無意識性のゆえに、そのことに「全く気づかない」――知らずにわたしたちは人を裁き、見下してしまっている、それがわたしたちの常態だということです。〝人はよほど心していないと、イエス的であるよりファリサイ的になる〟とは、井上神父がよく口にする言葉ですが、これは、自身の右のような体験から実感をもって発せられた言葉であったことが確認できます。

さらにいえば、「それまでの生き方の間違いを教えてくれた」のは、「ある夜読んだ『新約聖書』の一節」だったというわけですが、それがなぜ、その時、そのようにしてであったのか、だれも(おそらく神父自身も)答えられません。それはもう、アッバのお計らい、お恵みとしかいいようがない。

つまり、わたしたちが自らの間違いや罪に気づき、回心するには、わたしたちの努力をこえた御力がなくてはならないということ。このようなことは頭ではわかっていても、現実にはなかなか実感できないものです。神父のこの回心体験は、こうしたアッバのお導きをも、はっきりとわたしたちに示してくれているように思います。
その上で井上神父は述べます。

<私にはどうしても納得できない、現在までの歪んだキリスト教のイメージを打ち破って、ここ二十数年来、私なりに一筋にイエスを追い求めてきた結果、やっと朧げながらつかみえた真実のイエスの姿と教え、少なくとも私にとっての真実のキリスト教の風景というものを、私はこの本のなかにえがきだしてみたいと思っています。>(二三頁)

第一部でもわたしはこの言葉を取り上げ、「この弁は『私の中のキリスト』にかぎらず、『日本とイエスの顔』以来、井上神父の全著作・全活動の根本的動機となっている」(『心の琴線に触れるイエス』一二一頁)といいました。

今ここで、右の神父の言葉をもう一度捉えなおすと、「真実のイエスの姿と教え」「真実のキリスト教の風景」をえがきだしたいという神父の「全著作・全活動の根本的動機」は、当該<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>による回心体験に強く触発されたものであったということができるのはないでしょうか。

category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/1393-c4fa98a0
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

講座・南無アッバの集い

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

カテゴリ

全記事表示リンク

▲ Pagetop

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。