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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

(24)『私の中のキリスト』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>-1.「悲愛」から「南無アッバ」へ  

「裁かない愛」「石を投げない愛」・・・・「~でない愛」=「為さざる愛」は、「為す愛」を誇りにして前面に押し出してきた西欧型キリスト教からみれば、消極的で後ろ向きの感が否めないかもしれません。

しかしそれは、これまでの文脈にそって言いかえれば、自らを「わきまえ」、自我を「ひかえる」愛ともいえるのです。そうであればこのことは、ケノーシス・タペイノース的姿勢に通じることはもちろん、井上神父が常々強調する、宗教による自己相対化にも直結する事柄となります。

またここで改めて気づくのは、この「わきまえ」「ひかえる」悲愛の姿はすでに論じた、井上神学における「申し訳なさ」という罪意識にも対応するように思います。さらに、こうした「~ない愛」という否定詞で表現される愛は直接的な言葉からまず、キリスト教における否定神学を連想させ、また井上神学における、東洋的な無、神聖なる無といったものへの関心をも連想させます。

「裁かない」こと、「判断留保」、「ひかえ」、「わきまえ」、これらはいいかえれば、「南無アッバ」――アッバにお委せするということです。そして、「南無アッバ」は、わたしたちそれぞれのままならない心の思いをも、アッバに委ねることを含むものでした(『すべてはアッバに御手に』第九章)。

ここで「わたしたち」とは当然、自分自身だけでなく、それこそままならない他者を含めてのことです。その「思い」を南無アッバするとは、具体的には「わきまえ」の姿勢――他者の心の思いに対する「判断留保」として現れてくるということなのです。そこには思いやりに通じる愛があります。

本稿第二部では、井上神学――アッバ神学における「罪」や「復活」を中心に考察することによって、「南無アッバ」にたどり着きましたが、今ここでわたしたちは、アガペー――「悲愛」について思いめぐらすことによって、やはり「南無アッバ」へとくぐり出ることになるのです。

category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

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