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第23回(3)回心への原体験-人に石を投げない心-『風』誌第82号   

 こうして神父の回心体験を振り返るとき、一点触れておきたいことがあります。
本稿の冒頭でわたしは、自分と聖書との出会いについて井上神父のそれと並行しながら述べました(『心の琴線に触れるイエス』「序にかえて」)。

神父が聖書とイエス・キリストに真に出会ったのは、「キリスト教入信前の学生時代、あるハンセン病院を訪れたとき」だったといいます。それは具体的には神父の洗礼が「二十一歳の誕生日の前日」であったことから考えて、十代の後半から二十歳までの頃のことでしょう。

 <(ハンセン病患者に対し)こわいものにでもふれるような態度しかとれなかった昼間の自分の姿に、深く自己嫌悪にとらわれ、寝つかれないままに、哀しみの潮騒に心洗われていた私は、しかしふと、波打ちぎわに残された一片の桜貝にも似た、ある暖かな思いが、ポツンとその哀しみの波打ちぎわに残されていることに気づき始めたのでした。

それは、なにか、私はゆるされている、という思いにも似たものでした。>(『日本とイエスの顔』第一章「ことばといのち」)

 井上青年の聖書とイエスとの「真の出会い」が、ハンセン病患者を通しての「自己嫌悪」と「・・・・一片の桜貝にも似た、ある暖かな思い」――「私はゆるされている、という思いに似たもの」をともなっていたということ、わたしにはそれが大変興味深く思われます。

というのは、本稿で述べた「復活の前にあるもの」(第十一回)、あるいはそれに関連して述べた「罪意識の前提性」(第十八回)といった、井上神学を語るときに重要な事柄の萌芽を早くも、受洗前の井上青年のこの心情に見る思いがするからです。

イエスが復活する前、弟子たちは師を裏切ったことによる「自己嫌悪」を抱えて、鬱々としていました。その「自己嫌悪」や「後ろめたさ」は、弟子たちの「罪意識」に結びつくものでした。そしてそれらが前提となって、弟子たちの復活体験――イエスによるゆるしの体験が起こったのでした。

井上神父は福音書が一貫して、イエスの「ゆるしのまなざしによる、弟子たちや人々の回心の物語」(『わが師イエスの生涯』一九一頁ほか)であると繰り返し語り、その視点から神学を展開しています。

わたしは、井上神父がこのような視点を持つに至った原体験が、多感な青年期における右のハンセン病院での体験だったのではないか、少なくともその遠因の一つにはなっているのではないか、と推測するのです。

すなわち、聖書という象徴を介して、ハンセン病者から感じた井上青年の「自己嫌悪」が、イエスを裏切った弟子たちの「自己嫌悪」に対する心情的理解――体験的共感を生み、また促したということ。

同時に、「私はゆるされている、という思いに似たもの」――それはほのかな思いであったかもしれませんが――を感じたことが、イエスのゆるしのまなざしへの予感として、準備されていったのではないか、と想像するのです。
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コメント

ありがとうございます。

余白さま、こんばんは。
今、罪悪感と後悔の念でつぶれそうな私は、
今日、クリニックでの順番待ちの間、
余白さんの著作「人の思いをこえて」に慰められました。

そして今、この3回にわたる井上神父様のシリーズを拝読して
なおさら、弱った心を、自分なりに受けとめる気持ちになりました。

感謝のうちに。

やなぎはっか #HfMzn2gY | URL
2009/09/18 22:49 | edit

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