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第23回(1)悲愛は可能か?-人に石を投げない心-『風』誌第82号   

 『日本とイエスの顔』のなかで、<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>が全文引用のかたちで大きく取り上げられるのは、第七章「悲愛」においてです。井上神父はここでまず、アガペーを「悲愛」と訳したゆえんを語っています。

<アガペーの愛は相手と同じ立場に立って、無心に〝共に喜び共に泣く〟(ロマ書一二章一五節)愛であり、相手の弱さやみじめさを最終的には己れの上に素直に荷う愛であるといえましょう。

もし〝悲〟という字が、本来は人生の苦にたいする呻きを意味し、共に苦しむおもいやりを意味するものであれば、アガペーは悲愛とでも訳すのがいちばんふさわしいと思います。イエスの孤独と苦悩と裏切りに耐えた十字架の死は、まさにこの悲愛のもっとも崇高な姿をあらわしているといえるでしょう。>(『日本とイエスの顔』一六三頁)

 「悲愛」の語源については第一部でも取り上げましたが(『心の琴線に触れるイエス』第三章「共に在す神」の再発見)、そういうイエスであるからこそ、十字架以前も生涯を通じて、ファリサイ派のように
<かくあるべしという基準をもって人を審くまえに、その人が哀しみと孤独のうちに背負って来た十字架を受けとめ、その人の心をそのあるがままの姿において感じとめ>(前掲書、一六八頁)

られたのです。

 しかし人間に、そんなアガペー・悲愛は、

<可能なのだろうか、人間は口では皆なんとかいっていても、結局は人を見下すことに密かな喜びと幸福感を味わっているのだし、最後には自分がいちばん可愛くなるにきまっているのではないだろうか。そういう疑問がすぐ私たちの心にはわいてきます。たしかに人間は醜いものだし、弱い反面残酷だし、またこの上なく身勝手なものだと思います。>(同書、一七七~一七八頁)

と、理想を語ることだけではすまされない、わたしたちの現実、疑問を井上神父が代弁します。

ここでわたしたちは、「人を見下すことに密かな喜びと幸福感を味わっている・・・・」という言葉が、前回とりあげた同書第四章「イエスの神・アバ」で脚注が付された「・・・・他人を見下げることに幸福を覚え」(17)という言葉と符合していることに気づきます。すなわち、この第七章では「悲愛」ということをめぐって、<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>を、おもに他者との関係でもう一歩考察を深めることになるのです。

「悲愛アガペーは可能か」という疑問に対し、まず神父は、イエスに対する全幅の信頼をもって、次のように前置きします。

 <しかしイエスは、私たち人間がどういうものであるかということは骨の髄まで知っていました。その上でなおあの崇高な悲愛アガペーを生き、かつ説いたのだと思います。そしてむしろその点にこそ、イエスがもっとも示したかった信仰の秘密がかくされているように思われます。>(同書、一七八頁)

 わたしたちが「醜く」「残酷」なダメ人間だということを、イエスは十分知りつくしたうえでアガペーを説いた、そこにこそ「信仰の秘密」があるというのです。そして、

<悲愛が共にということをもっともたいせつにするのであれば、人を軽蔑し見下すことは、悲愛とは程遠いこと>(同前)

として、<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>を全文引用しています。
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