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書評:神父が書いた詩集――井上洋治著『風の薫り』を読む――(五)  

ベランダで



ベランダに出て

  こうやって

   青い空を眺めていると



そっと

  あなたが横にすわって

いっしょに

  空を見ていてくださるような

     そんな気がしてくる



そして

  老いと死とを超えた生命を

  やさしく語ってくださった

 あなたのお言葉を

ほんのすこしでも

   疑うなんてことが

どんなに失礼なことかに

    気づかされて

    恥かしさで

 胸が一杯になってくる



そうすると

   なんだか空の青さが

   どんどん大きくなってきて

   ふわっと そんな私を

  包みこんでくださるように

     思えてくる

                一九八九年 十月十日



 井上神父は一九八六年春、「風の家」をはじめる。その機関誌『風プネウマ』創刊号の趣意書には「・・・・日本人の心の琴線にふれる〓イエスの顔〓をさがして、一人でも多くの日本の人たちに、イエスの福音のよろこびを知ってほしい、そう願って、この「風の家」をはじめました。」とある。第二号ではさっそく八木重吉が特集されるが、井上氏が宗教と文学について繰り返し述べていることには次のような理由がある。すなわち〝宗教的体験は日常の言語では正確に表現できない深層意識にかかわるものであるから、詩や文学といった象徴的深層言語によってもっともふさわしく表現される〟というのである。したがって、「日本人」の宗教体験は、日本語の詩や童謡によって最もよく表現されるということになるだろう。重吉が『風』で真っ先に取り上げられたゆえんであろう。



  祈り

ゆきなれた路の

なつかしくて耐えられぬように

わたしの祈りのみちをつくりたい       重吉



 重吉の詩は、キリスト教の日本文化内開花をめざすものにとって最も示唆に富んだ教材といえる。そして井上氏自らも自作の詩を『風』に掲載していく。その最初のものがこの「ベランダで」という詩である。編集室の山根道公氏によれば、この詩は井上氏が「あんまり青空がきれいなのでベランダから眺めていたら、こんな詩ができた」と言って山根氏に見せたものだそうである。

 この作詩の前年、一九八八年には『まことの自分を生きる』が出版されている。そこで取り上げられているのは、宮沢賢治・芭蕉・西行・良寛であり、「まえがき」によれば、これら氏の「いつもずっと心の友であった」人たちをイエスに紹介する気持ちで書いた本である。一読、キリストへの求道といえども、日本人が日本語を離れてはなしえない、という氏の確信が伝わってくる。そして最後の「イエス」の項で〝復活〟について触れ、次のように記す。

 「復活とは、死んだ人間がまたこの三次元の世界に生き返ってくる蘇生とはちがう。神の御手に、永遠の生命によみがえることである。とはいえ、宗教体験を日常の言語で正確に表現することはきわめてむずかしい。宗教的体験は表層意識にではなく、深く深層意識にかかわっているものだからである。宗教的体験はその意味で、厳密には象徴的にしか表現することはできない。したがってイエスの弟子たちも、この出来事の宗教的体験を、象徴的に、文学的にしか語っていない。」(177頁)

 「ベランダで」は「一本の老木」からさらに六年後の作品である。前述のとおり、「一本の老木」は老いの意味を積極的に語り、慰めに満ちた作品ではあった。しかし、「冬枯れの丘に」「立ちつくしている」老木は直接的にはどこまでも孤独な存在であった。しかし「ベランダで」において、「老いと死とを超えた生命を」語られた者(作者)は、ひとりではない。といって、対座しているのではない。「あなた」(イエス)は「横にすわって いっしょに 空を見ていてくださる」方なのだ。ある種の心理療法では相談者を正面ではなく、横に座らせて話を聞くという。私も学校現場で、扱いの難しい生徒を脇に座らせて、同じ方向を向きながら話をする(聞く)ということがある。すると、自然に心を開いてくれるということをしばしば経験した。そんなイメージを持った作品である。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」(ヘブライ11.1)ことである。しかし人間であるかぎり、ときに「ほんのすこしでも 疑うなんてことが」あるにちがいない。しかしイエスが傍らに「すわって いっしょに」いてくれるということ、そして、命をかけて「老いと死とを超えた生命を」保証してくれていることに気づいたとき、もう一度信仰の世界にわれわれは引き戻されるのである。終連、「そうすると なんだか空の青さが どんどん大きくなってきて ふわっと そんな私を 包みこんでくださるように 思えてくる」はそうした安心感を見事に言い表わしている。並んで座っている作者とイエス――ルオーの絵にあるような「エマオの旅人」を連想させる――を「包みこんでくださるように」「空の青さが」広がっている。この「空」が父なる神を象徴していることは間違いないだろう。井上氏は「シンポジウム 日本カトリシズムの原点と成熟」(1982.戸田義雄編『日本カトリシズムと文学』所収)のなかで、「十字架のヨハネ」が、真上から見た十字架のイエスを描いた珍しい絵があることに触れ、次のように語っている。

 「北森神学だと神の本質が痛みだというわけです。本質そのものが痛みであると。・・・・私の場合には痛みというのはあくまでもイエスの痛み、裏切ってゆく弟子たちを包むイエスの痛みなのです。そしてそのイエスの痛みも、裏切った弟子たちの哀しみも共に何か御父の、神の、やわらかな夕陽に包まれているような感じの世界なんですよ。・・・・だから私には、やはり十字架のイエスを本当に包み込んでいるさらに大きな、何か手みたいなものを感じさせる絵でなきゃ・・・・。」

 もう一度、「ベランダで」を振り返ってみよう。単純に図式化してしまうことは避けなければならないだろうが、あえてすれば、この詩は次のような神学的な構造を持っているように思われるのである。(第一連)自然への気づき↓(第二連)自然・人間と共にあるイエスへの気づき↓(第三連)イエスによる永遠の命への回心↓(第四連)自然・人間・イエスを共に包み込む御父の愛への気づき――ここには、免れがたく老いと死へ向う重苦しい自己が、自然・イエス・父なる神の愛の同心円に包み込まれていくにつれ、次第に相対化し、いわば〓軽み〓を帯びていくという宗教の世界があるといえる。
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