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書評:神父が書いた詩集――井上洋治著『風の薫り』を読む――(三)  

 前掲「願い」について、氏は自伝的エッセー集『余白の旅――思索のあと』(日本基督教団出版局)の中で、次のように語っ ている。

 (渡仏前から所有している唯一の本である文語訳新約聖書の間にはさんであった)「この詩をみたとき、今の自分の生活を振りかえってみて、私はまことに慚愧にたえなかった。しかしこの拙い感傷的な詩に表現されている魂の憧れだけは、今も私の心に脈打っていると思う。自己顕示欲の強い私だからこそ、路傍の一輪の名もない花の心に限りなく惹かれるのであろうが、この魂の憧れを失ったときこそ、私のキリスト者としての生命の終りだというような気がするのである。」(51頁)

 『風の薫り』では「この魂の憧れ」が次のようにうたわれていく。

憧れ

 木々の若芽がそっと 鳥に恋している

   そんな恥じらいが

  しずかに きこえてくる

    春の宵がある



 若葉の露が 明るく雲と語っている

   そんなはなし声が

   はっきり きこえてくる

    夏の朝がある



 一枚の枯葉が そっと大地にかえる

   そんな音が

   かすかに きこえてくる

    秋の夕べがある



  さらさら さらさら

   透明な風が

   柔らかな光になって

    沈黙の大地をふきぬける



 一九七六年、四十九歳で『日本とイエスの顔』を出版した翌年の作品である。前述、一九五〇年フランス渡航直前の二十三歳の作品「願い」との間に二十七年もの歳月が流れている。にもかかわらず、作品的に何の違和感もなく連続していることにまず驚かされる。それは、これら二つの詩の間で氏が二十七年間暖め続けてきたものが不変であったことを意味する。そして二十七年前の「願い」の中で「難しい神学は何一つわからないでも・・・・」と繰り返したあの初心を確認するかのように、以後の詩が溢れ出てくるのである。

 しかし、この二十七年間は氏にとってけっして平坦な道ではなかった。以下、『余白の旅』からこの間の精神遍歴を少しく年譜風に辿ってみたい。



1950.6.入信の動機となったテレジアの跡を追ってカルメル会修道院入会のため渡仏。船中、遠藤周作氏と出会う。7月、ボルドーより車で1時間ほどにあるブルッセ村の修道院に入会。在仏二年目に遠藤氏の訪問を受ける。厳しい日課であったが、そのなかで「型」への信頼を得たり、一種の甘美体験なども経験する。

1951.10.3.誓願を立て正式会員になる。アルル近くの修道院に移り、司祭向けの勉強開始。しかしトミズムに対する激しい葛藤を経験する。

1953.リヨンの修道院からカトリック大学へかよって勉学する。文化というものの重みを経験し、日本人のままキリスト者になれるはずだという確信が芽生える。

1954.ローマのインターナショナルカレッジへ。信仰対象を理性で証明しようとすることへの不快感。良き指導者フィリップ氏から影響を受ける。貴重な二つの体験、「言語の重み」体験――生涯のテーマ「日本人とキリスト教」への発展とルカ伝十八章による福音書体験。

1955.北フランスのリールへ。滞欧最後のこの二年で漠然としていた課題が明白になっていく。精神分析学・深層心理学・精神身体医学等を含め猛勉強――「人が人を審くことはできない」、「イエスが命をかけたアガペーとは、人に石を投げない姿勢である」との結論を得る。また、「ことばによらない」東方神学に共鳴し、「無」・「場」・「余白」など後に井上神学のキーワードとなる考えのヒントを得る。

1957.春.「田舎の家」で祈り、カルメル会退会を決意。

1957.12.石神井の神学校に編入。和辻哲郎・鈴木大拙・小林秀雄など日本文化について独習。京都・奈良を度々散策。「心の奥に眠っていたものが目覚める」自覚。

1960.3.司祭叙階。助任司祭として世田谷教会へ赴任。「心の奥底に目覚めてきたもの」をそっと育てる決心。ヨーロッパで獲得したものと「目覚めたもの」との調和が生涯の課題を解く鍵となる。

1962.洗足教会の助任司祭に。ルージュモンによる「エロス」と「アガペー」についての示唆。一般誌『理想』に「キリスト教の日本化」と題する論文を発表。

1964.真生会館へ移る。大きな精神的危機に直面するなかで、堀辰雄・立原道造・西行・芭蕉等に触れ、日本人として自然への思慕を確認。法然へも親近。

1966.5.日野の豊田教会へ赴任。遠藤周作著『沈黙』を読む。ユダの心理分析。酒・煙草・産児制限・再婚等、信者の現実問題に直面。

1967.6.教会堂再建のため、青梅―豊田を往復。祈りについて、マリア、小教区制について、またブルトマンの「非神話化」についての考察。

1971.石神井の大神学校へ指導係として赴任。「空」・「無」・「風」・「キリストの体」・「復活」・「贖罪」について考察。この三十年間の考えを一冊にまとめようとの思いを強くする。

1974.中目黒のフランシスコ修道院へ。

1976.『日本とイエスの顔』を北洋社から出版。初版三千部、半年で三刷、非キリスト者からも大きな反響を得る。「余白」についての気づき――

 

 こうした年譜は、カトリックや井上氏の著作に親しんでいない読者にはわかりにくい部分もあろうが、少なくとも、たとえばキリスト教用語であるアガペーに「悲愛」という文字を当てたり、神の働きを「余白」として説明するなど、井上神学のキーワードが、以上一瞥したような三十年間の呻吟のなかから生み出されたものであることは理解することができよう。

 そしてこうした精神遍歴を経た後、氏は次のような境地に至るのである。

 「以前は美しく死にたいとか、意識がなくなったとき変な見苦しいことばを口にしないかなどと気にかけたこともあった。しかし私の人生が私自身を表出するものではなく、余白の風が私自身の人生を通して自らを表出するものである以上、そんなことはどうでもよいことだと思うようになった。」(『余白の風』260頁)

 われわれが人生の意味を問うのではなく、人生がわれわれに意味を問うている、とはフランクルの言葉だが、人生とは、「私自身を表出するものではなく、余白の風が私自身の人生を通して自らを表出するものである」との境地は、まさに人生の意味のコペルニクス的転回というべきであろう。

 「憧れ」は、一対一の自然との対話というよりも、自然のなかにある自分というもの、さらにその自然に溶け込んでしまうような人生の軽みを感じさせる詩である。まさに「対自然」ではなく「即自然」をうたった詩であるといえる。さらにこれが、氏のキリスト者としての思いの果てに見つけた「自然」であることが了解されれば、終連の「透明な風」はまさしく「余白の風」であり、「柔らかな光」とはそこに働くキリストを象徴するものということになるだろう。

 わが家の居間には、十八年前妻と私の結婚記念に師から頂いた次のことばを記した色紙が掲げられている。



  余白の風        

   露草の如く

  神の悲愛に遊ばん    洋治
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