「南無アッバ」を生きる ホーム » 求道詩歌誌「余白の風」 »第163号 2009年 7月発行

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

第163号 2009年 7月発行   

--南無アッバを生きる--
Copyright©2005余白平田栄一,All rights reserved.

前月号推薦句
やはらかに人と神遇ふ蕗の原  孝子


主宰近詠
蓮田市  平田栄一
彼岸過ぎ死は究極の平等なり

轟々と父焼かれる日の春霞

背向けて祈る姿や涅槃西風

父の霊漂う春の川面かな

通夜前夜とっぷり疲れ春の床

春水やうしろ姿の父映し

アバ様の御手に御足にじゃれついた猫は疲れて大鼾かな

ザビエルを送りしアバは数百年後の神父に「南無」と言わしむ

治療したばかりの前歯が痛み出す眠れぬ夜をアバは賜えり


*三月五日に八十八歳の父が亡くなって、早四ヶ月。妻が「電話でお義母さん、ちょっと元気なかったみたい」というので、月命日にかこつけて今日、実家を訪ねたら、母は意外に元気でした。「あと三年は生きないとね」などと、どういう計算か、独自の目標を持ったようです。小さな目標――いくつになっても、毎日のささやかな目標を持って、そこそこに努力する、単純ですが大切な真理を教えられました。


作品とおたより(*主宰寸感) 

立川市  新堀邦司
   再々就職
末席に吾が名札あり入社式

好きなもの一つ断ちたり受難週

開きたる手擦れの聖書や復活祭

亡き父の耶蘇名ペトロや復活祭

はやばやと風呂を沸して端午かな

草笛や暮色を深め千曲川

蠅叩晩節汚すばかりなり
  (「日矢」六、七月号)

*定年後の静かな生活を詠う、というのも楽しいことでしょうが、氏の求道心は衰えることがありません。好きなものを「断ち」、「手擦れの聖書」を読み込む姿勢、そして「再々就職」への意欲。青春はこれからです。


一宮市  西川珪子
天からの恵み一身花水木

一瞬に燕返しを見せて去る

十薬の白さ十字架天に上げ

梅を捥ぐ手の皺ひかる齢かな

波砕け二見が浦は初夏の風


*「花水木」や「十薬」(どくだみ)の白さ、じっと眺めていると、ほんとうに「天からの恵み」を「一身」に受けている。そして気づく、その白さ、お恵みは「十字架」を通過したものだったのだ・・・・。


秦野市  長谷川末子
梅雨最中泣き声高きやゝこかな

糟床にぐっと押し込む夏だいこ

夾竹桃むかし戦火のありし事

夜空裂く稲妻を見ゆ恐れつつ


*自然はいつでも、わたしたちの先生であり、教科書であるように思います。それはいつも心地よいものとは限らない。「夾竹桃」に「戦火」を回想し、「稲妻」に「恐れ」や不安を抱く。自然の教えはそうした喜怒哀楽すべてに及ぶ。そしてそれらは丸ごと、アッバに抱き取られることも教えられる。


名古屋市  片岡惇子
花石榴隠れし光溢れ出す

耐えること止めと息吹き花石榴

大夕焼乱れし脈を乱れさす

蜘蛛の囲に懸かりて生命夜半の月

韮の花分れの時は出会うとき

響かない説教聞いて梅雨に入る

門閉じて教会は昼寝旅続く

立葵不本意ながら風にゆれ

韓ドラに切なくなりて更衣

ハングルを教える神父夏清し


*不安は時に増幅する(第三句)。運命は受け入れなければならないのか(第四句)。しかし確かな再会の希望(第五句)。自然が秘めた希望、に慰められる(第一句)。「花石榴」はいう、力を抜いて「南無アッバ」せよと(第二句)。


豊田市  佐藤淡丘
学園祭裏方で咲く夾竹桃

うずたか堆く夏草刈られトカトントン

梅雨寒や鉛筆十本削りをり

紫蘇畑の風下に佇つユダ悲し

垂れるかに蜜を吸ひゐる黒揚羽


   荒梅雨の景
 早朝いつものように、「会神の丘」に傘さして登り始めた。余りにもの荒梅雨に、途中の坂道は洗濯板を立て掛けたような、荒々しい水流となって迫って来た。
 頂上の空は開けてはいても、樹々は強い雨粒を受けて慄然として我を囲んでいる。

 そんなとき、頭上から絶えて久しい〝囀り〟が聞こえて来た。四月頃盛んに鳴いた、あのミソサザイの声である。小さな体で荒梅雨を跳ね返す勢いは、神さまのみ使いとしか思えません。これこそ有難きお引き合わせです。こんなとき、〝南無アッバ〟と唱え、暫し雨中の喜びに浸ったものでした。

*「会神の丘」でのミソサザイとの出会い――生活のなかでのアンテナをいつも高く上げているから気づく幸い。何気ない日常にどれだけの発見ができるか、そのことにどれだけ感謝できるか、幸福の秘訣は単純で、巧妙で、お任せの心に潜むものなのだなあ、と教えられます。


東京都  外野愛子
  Full Of Heart
君に会えなくて/僕は淋しいはずなのに/僕の心はなぜか満たされている//僕の心が満たされている理由は/僕はよく分からない//ただ僕の心は/おだやかで/満たされている//僕は君から/自立することは/まだ出来ないと思う//今は何も考えていたくない/君によって僕の心が/満たされているから

*「君」は読む人によって、いろいろに受け取れますね。恋しい人、友人そしてイエス様?「会えなくて」も「心が満たされている」のは、やっぱりいっしょに居るからかもしれません。会えないのにすでに共にいる・・・・やっぱりこれは意味深い宗教詩のようです。


新刊二冊
 このところ、プロテスタントの牧師先生が、井上神父や神学を、紹介してくださっている本が続けて出されています。『アッバのふところ』(聖公会出版)はすでにご紹介しましたが、聖公会神学院の校長・広谷和文先生。『カラマーゾフの兄弟』に出てくる「ゾシマ長老を偲ばせる人」として、井上神父を紹介しています。

 今一つは、『風言葉』(いのちのことば社)。著者の小宮山賜夫先生は、日本アライアンス呉教会主任牧師。冒頭に井上神父の詩「願い」を載せ、「僕の座右の銘です。十年ほど昔、この詩に出会って、僕の人生観は変わりました。僕もこんな生き方をしたいと願うようになりました。」と語り、「クリスチャン用語を使わないで福音の息吹を伝え」ようとする、親しみやすいエッセイ集です。

 お二人とも、南無アッバミサに毎回来て下さいます。アッバの導く不思議なご縁を感じずにはいられません。


井上洋治神父の詩:余白

  イエスさまにつきそわれ
     おみ風さまにうながされ
       いつでもどこでも
     南無アッバ
      アッバ アッバ 南無アッバ


 この詩を巻頭に置く『アッバ讃美』(聖母文庫)は、二〇〇四年四月、「井上神父喜寿のお祝い」で参加者に配られた詩集です。『風の薫り』『南無アッバ』に続く、神父三冊目の文庫詩集となります。
 わたし個人として、まず全体の印象は、前二作に比べ、何か、より自然な言葉の発露――神父の心の赴くままに自由に書かれた様子がうかがえます。井上神学の「文学性」ということについては、拙著『心の琴線に触れるイエス』でも指摘したところですが、そのなかの詩歌性が明確に表出されているのが、本詩集ではないかと思います。

さて掲出詩第一行「イエスさまにつきそわれ」は、井上詩や祈りのフレーズとしてはすでにお馴染みの言葉ですが、実はこうした言い回し・言葉づかいは、これまでのキリスト教ではあまり使われていません。

ちなみにインターネットで検索してみると、「イエスさまに(弟子やわたしたちが)つきしたがう」という言い方はよくあります。これはわたしたちが、こちらからイエスさまに近づいて行く――わたしたちが主体となった言い回しです。ところが、井上詩の場合は、イエスさまの方が主体となって、わたしたちにつきそってくださる、というニュアンスです。第二行も同じです。「おみ風さまにうながされ」る客体はわたしたち。主体はあくまで「おみ風さま」なのです。

 わたしは、井上神学における自己相対化原理についても、縷々述べてきましたが、こうした作詩の一、二行にも、はっきりと神学の主張――あちらが主でこちらは従――がにじみ出ているということを、大変興味深く思います。


本誌は、井上洋治神父の提唱する「南無アッバ」の心を生きるため、俳句を中心として、共に道を求め、祈り合うための月刊誌です。
どなたでも、賛同される方の参加をお待ちしています。(原稿採否主宰一任)

○締切=毎月末 
○年会費二千円(半年千円 A4版2ページ誌代・送料共)
○投稿先:このブログの余白メールへご連絡ください。

category: 求道詩歌誌「余白の風」

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

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