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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

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6.罪の無意識性と他者性-第22回「謙遜」という在り方-『風』誌第81号  

「大罪・小罪」といった教会的な区分や、その「罪」の構成要件にどのように自由意志がかかわるか、といったような議論は、わたしにはあまり興味がありません。むしろ、個々の罪を犯す根本にあるもの(原罪)が、表層的な「私」意識には手の届かぬ深層意識に、如何ともしがたく浸透しているということの実感――リアリティから、出発したいと思うのです。井上神父の右のような語り口は、そのことを的確に指し示しているものといえましょう。

神父は同書『日本とイエスの顔』前半で、<アダムとエヴァ>の物語を引きながら、次のように語っています。

<アダムとエヴァの物語において、作者は、私たちひとりびとりの人間の生そのものには、自分たちの力だけではどうにもならないどろどろした汚れがこびりついているのだ、その自分でも気づかない汚さのために、私たちの生を私たちの生たらしめている根底、宇宙を貫いて流れている永遠の生命に浸りきることができず、そこから人生の底に沈殿する深い言いしれない哀しみや悲劇がうまれてくるのだ、ということを言おうとしているのだと思います。>(第二章「聖書を読むにあたって」三四~三五頁)

わたしたちの生にこびりついた「汚れ」である罪が、「自分たちの力だけではどうにもならない」ものなのだ、だからこそイエスが来て、ゆるしが与えられる。それがキリスト教の救いの基本であり、多くの聖職者や信者は繰り返し、このことを確認します。

そのうえで、井上神父や遠藤周作氏の信仰にはさらに、その「汚さ」に「自分でも気づかない」――<罪の無意識性>が強調されているように思えます。氏や神父の信仰における<無意識の他者性>ということについては、すでに述べてきましたが、今この二つのことを考えあわせるとさらに、<罪の他者性>という事態が浮かび上がってくるのです。それは、表層的な「私」意識ではどうすることもできない――意識的なコントロールはおろか、意識そのものができないのですから――そういう不気味で恐ろしい世界が、自分の深い所に巣くっているということ。底無しの井戸の暗がりに向かって、「罪よ、汚れよ、おまえのことで、私に何の責任があるのだ?!」とでも、叫びたくなるような狂おしさを、わたしたちは感ぜずにはおれません。

しかし、こうした罪の現実--罪のリアリティを踏まえながら遠藤氏や井上神父は、その同じ無意識という場に働く、アッバの力にも、それ以上に信頼しているということを忘れてはなりません。その確信ゆえに、罪人――新約聖書中であれ、わたしたちに対してであれ――に向けられた神父のまなざしは、静かなやさしさに満ちています。先の引用文では、「他人を審くことに心の痛みを覚えぬ程に傷つき汚れている」という、労いともとれる物言いに、そのことがはっきり表れていると、わたしは思います。そしてそのまなざしは、イエスのそれを彷彿とさせるものです。(つづく)

category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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