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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

3.「わきまえ」「ひかえる」姿勢-第22回「謙遜」という在り方-『風』誌第81号  

これまで述べてきたように、井上神父の「わきまえ」の姿勢とは具体的には、他宗教や他者に対する自己判断の留保――「ひかえ」の姿勢として現れます。それは井上神学の根底をなす日本的感性の基層といって過言はでなく、したがってさまざまな面に表出されていますが、ここでは、わたしなりの判断で、この方向性が顕著に示されている例を二つあげてみたいと思います。

それは、『ルカによる福音書』一八章の<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>と、一〇章の<善いサマリア人>のたとえです。この二つは、井上神父の諸著作のなかでも、おそらく最も多く引用されている聖書箇所の一つだと思います。この事実だけをみても、井上神学の中でとりわけ重要なペリコーペであることがわかりますが、昔わたしは直接、井上神父から〝・・・・あえていえば『ルカ』の一〇章と一八章に、キリスト教が要約されていると思っている〟と聞いたことがあるのです。

ちょうど受洗前後で、真剣に聖書を読みだした頃でした。今考えれば、神父に学びはじめたばかりで、聖書のポイントとしての<あれかこれか>がつかめず、<あれもこれも>に右往左往していた時期だったのだと思います(ここにいう<あれかこれか>・・・・については本稿第十六回参照)。しかしこの戸惑いは、わたしに限らず、ひとりで聖書を読もうとしたとき、多くの人が一度は経験するものではないでしょうか。ところが当時のわたしは、神父に〝ポイントはここだよ〟と指摘され、該当箇所を読んでも、正直なところ、それほどピンとはこなかったのです。

しかし今ここで、この文脈――ケノーシス~タペイノース~わきまえ~ひかえ・・・・という文脈で改めて取り上げようとするとき、ようやく、あの時の井上神父のアドバイスの真意が解せるような気がしています。

ちなみに『ルカによる福音書』一八章は、<「やもめと裁判官」のたとえ>(一~八節)、<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>(九~一四節)、<子供を祝福する>(一五~一七節)、<金持ちの議員>(一八~三〇節)・・・・というペリコーペの配列になっています。また一〇章は、<七十二人を派遣する>(一~一二節)、<悔い改めない町を叱る>(一三~一六節)、<七十二人、帰って来る>(一七~二〇節)、<喜びにあふれる>(二一~二四節)、<善いサマリア人>(二五~三七節)、<マルタとマリア>(三八~四二節)と並んでいます。

これらの配列の仕方も、ルカの編集意図を探るうえで、重要な資料となります。そして、井上神父が「『ルカ』10章と一八章・・・・」といったのは、これら全体を念頭に置いてのことだったと思われます。

category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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