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2.道徳主義をこえる視点-第22回「謙遜」という在り方-『風』誌第81号  

〇九年一〇月の「南無アッバミサ」前の小講話でもお話ししましたが、今年で七年目を迎えた本連載のなかで、最も大きな反響があったのは、「道徳主義をこえて」(『心の琴線に触れるイエス』第六章)と題して一文を書かせていただいたときでした。わたし自身の体験からも、また身の回りの求道者の声からも、あのとき書いたこと――井上神父が〝日本人は倫理に(言及されると)弱い〟といったことへの賛同――は、現在も変わりません。

しかし今、わたしたち日本人が伝統的に馴染みのある謙遜という徳から出発し、イエスの「謙遜」へと、共感・親近感をもって曲がりなりにも連なろうとする――受難を頂点とするケノーシス的生涯を黙想するとき、キリスト教、否、イエスの倫理へと新たなアプローチができるのではないかと考えるのです。それがどのような形で現れてくるかは、これからの日本人キリスト者一人ひとりの課題なのでしょうが、実は現時点でも、わたしたちに大きなヒントが示されているように思います。

それはほかでもない、すでに二度にわたって述べてきた、井上神父の「求道者として」の、あるいは「人として」の「わきまえ」の姿勢です。前回までに述べた、他宗教に対する判断留保、あるいは他者の臨終の思いに対する留保、自分を「わきまえ」「ひかえる」そうした姿勢は、「傲慢」や「失礼」というレベルをこえて、おそらく、日本人がキリスト教を自然な感性において、受け止められるかどうかの試金石になるのではないか、わたしはそう考えるのです。わたしたちの「わきまえ」の姿勢がイエスの「謙遜」にならうものとなり、自己相対化からイエスの自己無化へとつながれていく・・・・。こうしてアッバの救いにあずかるものとなるということです。
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