「南無アッバ」を生きる ホーム » 連載「井上神父の言葉に出会う」 »1.ケノーシスからタペイノースへ-第22回「謙遜」という在り方-『風』誌第81号

1.ケノーシスからタペイノースへ-第22回「謙遜」という在り方-『風』誌第81号  

さらにこのケノーシス的態度は、「謙遜」(タペイノース:『マタイによる福音書』一一章二九節など)に直結するものです。「謙遜の徳」などというと、何やら古めかしい語感がありますが、たとえば次のように説明されています。

<〔謙遜は、〕新約ではキリストの受肉や受難というケノーシス的生涯に収斂する。・・・・ギリシア倫理学が無視した謙遜は教父時代から中世にかけ最重要な徳と考えられた。・・・・謙遜こそ神がよしとする人間の在り方であった。・・・・それはキリスト教的貧しさと同義で現代の人格や共同体形成に必須な人間的在り方を示す。>(『岩波キリスト教辞典』三七四頁)

御存知のとおり、日本では伝統的に謙遜が大切な美徳と考えられてきました。(もちろん、東洋全般をはじめ、他の文化圏でもこの概念は存在するのでしょうが、文化交流において、よく西欧人に理解しがたい資質として日本的謙遜があげられるように、その親近性や特異性において、他国以上に意識されてきた国民的徳なのだと思います。)

そしていま、イエスの「受肉」から「受難」にいたるケノーシス的生涯そのものが、完全な謙遜を体現したものであったことを確認するに及び、わたしには感慨あらたなるものがあるのです。すなわち、古代ギリシア・ローマ世界において省みられなかった徳としての「謙遜」が、「アガペー」や「アッバ」のように、イエスによって発見され、あるいは掘り起こされ、現実に完全なまでに生きられたということ。そしてなにより、このイエスの「謙遜」が、古来わたしたち日本人が重視してきた伝統的徳としての謙遜と、少なくとも方向性において重なり合う所があるのではないかということ。こう考えるとき、日本人としてイエスを、あるいはイエスの教えを、より身近に感じることができる喜びが、おのずと湧いてくるのです。

読者のなかにはたとえば、イエスの「謙遜」は、「受肉や受難というケノーシス的生涯に収斂する」ダイナミックで積極的なものであり、日本人の謙遜は、どちらかというと静的消極的意味合いが強いという見方もあるかもしれません。また、現代日本においては、謙遜の徳はもはや本来の意味を失い、政治の世界などでわずかに世間的ポーズとして、形骸化した残滓を見るばかりである、などといった批判があるやもしれません。しかしわたしは、日本的謙遜がそうした消極性あるいは形式化の問題を孕みつつも、イエスの教えを生きるために、「神がよしとする人間の在り方」として、大きな可能性を持つものと期待しています。
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