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第158号2009年2月発行  

求道俳句で南無アッバ
Copyright©2005余白平田栄一,All rightsreserved.


蓮田市  平田栄一

聖櫃の前去り難し秋の朝

石たたき思わせ振りに道過り

何もかも思い出ばかり夕焼ける

血脈を今も信じて鶫鳴く

寒雷や真実告げず逝きし人

マンショ忌や父を厭いし子の夕餉


作品とおたより(*主宰寸感)

練馬区  魚住るみ子

若者のどくろ髑髏のバックル夏姿

秋霖や詫びの手紙のしめり勝ち

葬列や銀杏黄落果てもなし

*夏から秋にかけての季節は、めまぐるしく変化します。人と自然の関わりに育てられるわたしたち。
(前号の「るみ子」さんの句は、編者の転記ミスで他の方の作品でした。心より詫びします)


一宮市  西川珪子

柚子風呂に入れ忘れたる柚子一つ

柚子風呂や浮きつ沈みつ吾が人生

正月や流れのままに八十路かな

静寂を破り椿の命落つ

風花よあなたの痛み吾が痛み

雪室や生命をつなぐ知恵ゆたか

足音のみ高く響けり寒月光

今年の初釜は、嬉しい事が有りました。長く体を悪くしてお稽古をお休みされていた方が、突然出席して下さることになり、思わず「アッバ父よ!」と心の中で叫びました。神様はここに居て下さる!とても楽しく、和やかなうちに、終わることができました。
皆さんをお見送りする時、後ろ姿に、この喜びを来年もお与え頂けますよう祈りました。南無アッバ。

*「柚子」一つから、人生を深く考えさせられますね。「雪室」は、冬の雪を貯めておいて、春以降冷蔵庫代わりに使う倉庫様のもの。今でもときどき見かけます。
 病み上がりの友との再会は、格別うれしい。病を克服されて、また一回り人格が磨かれている。


東京都  外野愛子

歯車
今まで動いていなかった/歯車が再び動き出す//あの日あの時/止めた歯車を/再び止める日が/いつの日にか/やってくると知りながら//勇気を足せば/僕の歯車は動き出す//僕も変わり/僕の歯車の動きも/変わっていくのだろう//あの日あの時と/同じように/もう一度 君の前に/現れよう

*わたしたちはいろいろな歯車を持っていて、ひょんなことで一つ動き出すと、他の部分も動き出す。ときどき動くべきが動かず、動いては困る歯車が動き出してしまう。でも、油のように「勇気を足す」ことで、「僕」と「君」の歯車がかみ合う。


秦野市  長谷川末子

初富士を仰ぎて教会へと急ぐ

去年今年晴天の日を賜われる

初聖日心の喜び高まりて

一日の労を果して初日記

至らぬを又知らされる松の内

 皆様の作品感想文を拝見しながら優しさと神への絶対の信頼を読み取って居ります。限りある命お互いに手を繋いで御座の主を仰ぐ一年でありたいと思います。皆様に教えられ、心休まる場を望んで居ります。

*寒い日が続きますが、「初日記」「初聖日」心を新たにして、今年も南無アッバを目指しましょう。「至らぬを又知らされる」失敗は、アッバからのメッセージ。耳を澄ませたい。末子さんの旺盛な創作意欲に今年も期待します。


名古屋市 片岡惇子

風花や無力を知りて水となる

風花や無に成りきれず乱舞する

風花に優しさのせて重くなる

大寒や土の息吹を掘り起す

冬の日や呼ぶ声遠く近くなり

水仙を生けて寂しさ募りけり

冬の芽やいのちの命神のもの

*「風花」三句、意味深長です。「大寒」中の土の深いところで、アッバの「息吹」プネウマに出会うかも。「冬の芽」にある「いのち」を支えるアッバの「命」がある。求道俳句として、すばらしい句です。連作として読んでも面白い作品群です。


豊田市  佐藤淡丘

初日の出真向かひてのち頬に和す

水門の水底までも初日影

臘梅や触れなば硬き細工物

迷わずに風花となる光ゐて

冬の陽を浴びて無人の滑り台

*寒さの中でも鮮やかな黄を示す「臘梅」に、「細工物」とは格好の表現。「無人の滑り台」もそろそろおしゃべりがしたくなってくる頃かも。


立川市  新堀邦司

晩年は父似と言はれ日向ぼこ

聖誕樹天使となりし子が灯す

お揃いのマフラーを巻き婚近し

*わたしも年とともに、「父似」と言われます(笑)。「お揃いのマフラー」は、お子さんのことか、うれしさとちょっぴり寂しさも感じるような。


井上神父の本を読む(一):余白

 今日は『イエスの福音にたたずむ』の三つ目、「清めの式」と題された井上神父様のお説教を読んでみます。
 この聖書箇所は、『ルカによる福音書』二章二二―四〇節からの引用ですが、実は今日、二月二日(月)は典礼暦では、「主の奉献」の祝日になっているのです。ですから、その聖書朗読箇所と偶然にも一致していまして、ちょっとびっくりし、またうれしくもなりました。神父様のこの本を最初から読んでいるのですが、一日一項目でいくと、それが典礼暦と一致するということは、確率的に大変難しいことです。そう思うと、なにかとても意味深長な気がします。
 井上神父様は、この御本のなかで清めの式について、母親の「清めの式」と、初子の「聖別の式」がもともとは別のものであったけれど、ルカグループの編集によって、一つにされていったと、歴史的な経緯を説明されています。 そのうえで、この福音記者が何をわたしたちに伝えたかったのかと、考えられています。
 そうするとマリア様とイエス様――マリア様は神の母ですから、本来「清めの式」というのは不要だったろう。イエス様も神様の御子ですから、改めて聖別などという必要はない。にもかかわらず、マリア様もイエス様も、それぞれの式に、一般の人と同じように参加されたということ。そこに着眼されています。
 それは、たとえばパウロが、自分は律法の下にある人を救うために、そのように自分もなったし、強い人を救うためには、強い人になり、弱い人を救うためには弱い人になった(Ⅰコリント九・一九―二二)・・・・というパウロの悲愛(アガペー)の姿勢と同じであると。イエス様も本来、モーセの律法に従う必要はなかったんだけれども、律法の下にいる人たちを救うために、同じようにこの式に参加されたということ。
 「イエスさまは、上のほうからひょいと摘み上げるように救いあげるのではなく、私たちの弱さや汚さや哀しさ、そのようなものすべてと一緒に歩み、一緒に担ってくださり、私たちを神さまのもとに導いてくださる方なのだ・・・・。」こういうことをルカはわたしたちに語りたかったのじゃないか、と分析されているのです。
 わたしも、なるほどなあ、共に歩むイエス様、あるいは神様ということを想いながら、今日の典礼暦の聖書箇所の第一朗読を見ますと、そこは、『マラキの預言』または『ヘブライ人への手紙』となっています。その後者には、こう書いてあります。
 「(人は)血を肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。・・・・死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。・・・・事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(二・一四―一八抜粋)
 まさに井上神父様がお説教された、この「共に」――わたしたちと同じように歩んでくださるイエス様、マリア様の目線、それと同じことを『ヘブライ人への手紙』を書いた著者は強調している。わたしたちと同じように苦しまれ、肉体をもってこの世に現れてくださった。それは、わたしたちを苦しみや死の恐怖から救うためだったのだと、書かれています。
 今日の、神父様の御本の箇所と典礼の聖書箇所が重なったというのも、大変意味深長に思え、有難いと思うと同時に、内容的にも、本来『ヘブライ人への手紙』というのは、ユダヤ教的色彩が強いものですし、ルカの福音の今日の箇所も、旧約の思想を強く引っ張っている部分ではありますが、これと、日本への伝道ということを考えている井上神父様の思想とオーバーラップする部分もあるということが、また興味深いことだなあと、わたしは思いました。南無アッバ 南無アッバ 南無アッバ。


本誌「余白の風」(一九九〇年創刊)は、井上洋治神父の提唱する「南無アッバ」の心を生きるため、俳句を中心として、共に道を求め、祈り合うための月刊誌です。どなたでも、賛同される方の参加をお待ちしています。(原稿採否主宰一任)

○締切=毎月末
○年会費二千円(半年千円 誌代・送料共)
○連絡先 ここサイドバーの余白メールまで
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