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5.自己相対化から自己無化へ-第21回ケノーシス的生き方-『風』誌第80号  

 同じく『フィリピの信徒への手紙』の「キリスト賛歌」について、井上神父は処女作『日本とイエスの顔』のなかでは、次のように述べています。

<イエスの心は、完全に永遠の生命-場に感応し、神の愛に充満して、太陽の光を受けて輝く透明にすんだ水晶のようでした。だからこそ、人間の心の哀しみや重荷をそのままの己れの心に映しとることができたのであり、血と泥にまみれた一見もっともみじめな人間の姿となって、カルワリオの丘の上で倒れたのでした。>
(第八章「幼子の心・無心」)

ここでも神父は、前掲書と同じようにイエスを、「太陽の光を受けて輝く透明にすんだ水晶」にたとえています。このたとえについても、また改めて触れたいと思いますが、いまは、これが先程来の神性・人性の統合とともに、三位一体をも視野に入れた優れた象徴的表現である、ということを述べるに留めておきます。

またいうまでもなく井上神父が、「血と泥にまみれた一見もっともみじめな人間の姿・・・・」と語るとき、イエスのあの「ただの叫び」が神父の念頭にあったことはまちがいないでしょう。

そのうえで神父は、続けて次のように述べます。

<その心を、パウロは、このピリピ(フィリピ)の教会に宛てた書簡の中で、〝己れを無にして〟という表現であらわしています。

原文のギリシア語はケノーシスという言葉ですが、このケノーシスという言葉に、神の御旨にすべてをあずけきって、プネウマ(聖霊)の動きのままになりきっている、スッカラカンの、底というもののない、ひろびろとしたイエスの心が、よくいいあらわされていると思います。>
(同)

「水晶」にたとえられるイエスの心は、「己れを無にする」「ケノーシス」(自己無化)的姿勢であるというのです。

アガペーなどと比べると、ケノーシスという言葉自体は、一般のキリスト教信者の間でもそれほどポピュラーではなく、井上神父の著作のなかでも多く使われてはいないのですが、わたしは、この言葉が示す内容は、日本人のキリスト教理解、とくに井上神学においては、重要なキーワードになるのではないかと、最近思うようになりました。

「悲愛」とならんで、「自己相対化」が井上神学の重要なキーワードであり、その究極の姿は、神を「アッバ」とよぶイエスの姿勢にあった、とわたしは述べてきました(『心の琴線に触れるイエス』一〇二頁他)。

いまこのケノーシスによってわたしたちは、より鮮明に、アッバに対するイエスの姿勢を思いめぐらすことができるのではないでしょうか。

すなわち、ケノーシスはアッバに完全に聴従し、自己相対化を徹底したところでイエスが行き着いた「自己無化・自己放棄」であり、先の『フィリピの信徒への手紙』によれば、それゆえにアッバの栄光を受け、わたしたちのキリストともなったのでした。

ここに、イエスにおける神性・人性が統合され、「水晶」としてわたしたちへアッバの光を届ける契機がもたらされたのでした。

そして、この究極の自己相対化すなわちケノーシス(自己無化)を、わたしたち日本人の感性で井上神学的に捉えなおすならば、それはまさに、すべてをアッバに委ねる「南無アッバ」の究極的な姿といえるのだと思います。
(つづく)
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