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4.神・人をつなぐもの-第21回ケノーシス的生き方-『風』誌第80号  

 聖書学上これらの聖句の解釈は、細部にわたっておよそどの部分にも、さまざまな論説や争いがあるようですが、ここではそうした議論に深入りしようとは思いません。

むしろわたしは便宜上、かなり強引なことを承知のうえで、右の各聖句のうち、イエスの神性が強く表現されていると思われる箇所には  線を、おもに人性を象徴すると思わる箇所には  線をつけてみました。

これら両性がイエスにおいてどのようにか――混合・変化・分割・分離なく統一(カルケドン定式)されているというのです。人性を象徴する部分には、今回問題にしてきた「激しい叫び声」――「断末魔の大声」も含まれています。

 そしてもう一歩、わたし自身の想像を交えた考えを述べさせていただくなら、これら人性と神性を結び合わせ、統合する――カルケドン式には「混合」されないわけですが――いわば扇の要に当たる部分が、右聖句中の、  線部分なのではないかと思うのです。

すなわちイエスは、「自分を無にして、僕の身分となり」「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」を示し(フィリピ)、「祈りと願いとをささげ、畏れ敬う態度」をとり、また「多くの苦しみによって従順を学ばれ」(ヘブライ)たということ。

こうしたイエスの姿勢が、とりもなおさず、わたしたちの「救い」の根源たるイエスの「真の人」かつ「真の神」を立ち現わしたのだということです。

井上神父は、『新約聖書のイエス像』のなかで、神父の精神史に決定的な影響を与えたリジューのテレジアを紹介した後、『フィリピの信徒への手紙』の右の箇所に触れながら、次のように語っています。

<イエスの生涯は、己を無にして神の意を、すなわち私たち人類を神のふところに導き入れよという神の意を、十字架の死をもいとわずに生きぬいた生涯であったがゆえに、ちょうど太陽の光を受けて透明に輝いている水晶のように、父なる神のアガペーの深さと大きさを反映させている生涯でもあったのである。>
(一六二~一六三頁)

 イエスは、「己を無にして神の意を生き抜いた」がゆえに、「水晶のように」アッバの悲愛をそのまま映し出した生涯でもあったというのです。

そして、このようなイエスにあずかり、ならうわたしたちも、

<神の愛の支配に己を委ねる度合いに応じて、私たちの心の錆はおとされ、私たちの生活をとおして神の愛がにじみでていくことになる。そしてそれはとりもなおさず、永遠の生命がすでに私たちのうちではじまったということにほかならない。>
(八八頁)

のです。
 こうして、アッバからイエス、イエスからわたしたちへと、永遠の命、悲愛をもたらす要となったのが、イエスの、徹底して「己を無にし」、アッバの意志に徹底的に「従順」を示す姿勢だったのではないかと考えられるのです。

この態度こそ神性・人性の要となって、わたしたちの救いの根拠となったのだと思います。
(つづく)
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