「南無アッバ」を生きる ホーム » 連載「井上神父の言葉に出会う」 »3.「ただそれだけ」をめぐって-第21回ケノーシス的生き方-『風』誌第80号

3.「ただそれだけ」をめぐって-第21回ケノーシス的生き方-『風』誌第80号  

 その上で、もう少し考えてみたいと思います。
<私という、アッバの作品の仕上げとしての死は、どのような形でしめくくられるのかまったく分かりません。最後は「南無アッバ」と祈りながら、イエスさまにつきそわれてアッバにお迎えいただけるという願いを持ってはいます。

しかし、そんなことは何もできない、祈りも忘れたようなぶざまな死に方であっても「おみ風さま」(プネウマ)が必ずイエスさまとご一緒に、私の代わりに祈ってくださると信じています。

アッバのしてくださることというのは、私たちが考えたり願ったりすることよりも、もっともっと深くて、もっともっと大きいので、ただ南無の心でお任せしてゆったりと力を抜いていけばいいのだと思います。>(『イエスの福音にたたずむ』一〇四頁)

右のように井上神父が自身のことを語るとき、その脳裏には、イエスのあの「断末魔の叫び」があったように、わたしには思われます。もっとも神父に限らず、キリスト者が「死」を考えるとき、まず思い浮かべるのがイエスの死であることは、自然なことかもしれません。

その「叫び」は傍から見れば、あたかも「祈りも忘れたようなぶざまな死に方」ではなかったでしょうか。人間イエスとして、あの苦しみのなかで、意識的に何かの意図をもって叫んだり、語ったりするような余裕などなかっただろうし、それは人として当然のことだった。この一文は、そう考えている神父から発せられた言葉のように思えてならないのです。

 <おそらく師は、一人の人間の断末魔の叫びとして大きな声をだされた。ただそれだけのことだろう。>

 人間イエスが「祈りも忘れたような」「断末魔の叫びとして大声を出された」、「ただそれだけ」だからこそ、「ぶざまな死に方」しかできない「ただそれだけ」のわたしたちにも、「おみ風さまが必ずイエスさまとご一緒に、私の代わりに祈ってくださる」という信仰を、井上神父は表明できるのだと思います。

とすれば、イエスの「断末魔の叫び」は、人間として「ただそれだけ」であったからこそ、わたしたちの救いになったともいえるのです。

 ここまできてわたしは、十字架のあの「叫び」を「断末魔の大声ただそれだけ」と聞き、井上神父に肩透かしを食わされたように思っていたことが、(逆説的ですが)実は大変大きな意味をもっていたのだと、気づくのです。

つまり、「ただそれだけ」をキーワードとして、わたしたちとイエスの人性がつながるということです。
 井上神父が現代日本のキリスト教神学の必要性を説くとき、キリスト教の「救い」表現の多様性を示唆する、カールラーナーの次の言葉がありました。

<(キリスト教の)救いの原初的経験とは、単純に「われわれは救われた、なぜなら、われわれと同じこの人間(イエス)が救われたから」というものであった。>(『心の琴線に触れるイエス』三四頁参照)

やや教義解説めいてしまいますが、右のように言える――「われわれが救われ」るためには、イエスに神人両性、すなわち、わたしたちと同質であるという人性と、アッバと同質であるという神性が前提となる、というのが伝統的なキリスト教会の教えです。

<キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。>(『フィリピの信徒への手紙』二章六~九節)

あるいは、

<キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。

そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
>(『ヘブライ人への手紙』五章七~一〇節)

そしてこの手紙の著者は、

<この大祭司(イエス)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。>(四章一五節)
と、説いています。

 『フィリピの信徒への手紙』のいわゆる「キリスト讃歌」はともかく、井上神学をみるのに、旧約的色彩の強い『ヘブライ人への手紙』を持って来るのは、やや場違いな気もするのですが、キリストの神人性が短い聖句のなかに、鮮明に出てくる箇所と思われるので、あえて引用しました。(つづく)
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