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2.人としてわきまえる-第21回ケノーシス的生き方-『風』誌第80号  

 では、当該『マルコによる福音書』一六章三四節についてはどうなのでしょう。
わたしはここで、先に引用した井上神父の言葉の後半に注目してみたいと思います。

神父は、「一人の人間の死に際の叫びがどういう意図でなされたのかを推論することは、たとえ誰に対しても、失礼なこと」と述べていました。

すなわち、人間イエスを含め、臨終の「叫び」の「意図」をあれこれ詮索すること自体が、死に行く人に対して「失礼」なことだと言っているわけです。

本稿(十七)では、井上神父の他宗教に対する態度について述べました。そのなかでわたしは、
<(多元主義的な考え方は)たしかに理想的かもしれないし、人当たりもいいかもしれない。

しかし、南無の心で、自分が相対的な者、有限ないち「プレヤー」に過ぎないと自覚したとき、右のような断言は、「神様の地位に自分を押し上げる」「傲慢」ともなりかねない>

という井上神父の言葉をもとに、神父が他宗教に対して判断留保の態度を取るのは、「一求道者としてのわきまえ」であると述べたのでした。

 あらためて辞書を引いてみますと、「わきまえ」(弁え)とは、
<物事の違いを見分けること。弁別。道理をよく知っていること。心得。つぐない。弁償>(大辞泉)
といった意味があります。実際の用例としては「分をわきまえる」などといった使い方がよくされます。

そしてこういうときは多く場合言外に、自分(我)(の意見や考え)を「ひかえる」(控える)、あるいは「出過ぎない」といった意味合いが込められていることが多いのではないでしょうか。

わたしはまず、井上神父の自分を「わきまえ」「ひかえる」姿勢が、当該〝叫びの意図推論問題〟についても貫かれているのではないか、と考えるのです。

すなわち、一求道者として、安易に他宗教との関係を判断することを留保したように、ここでも一人の人間として、臨終の叫びの意図をあれこれ推論することを留保し、ひかえた、ということです。

当事者としてそれによって生き抜いたこともない他者の信仰を云々できないように、わたしたちが生きられない他者の人生の終末の思いについて「推論」すること、それ自体が「傲慢」であり、「失礼」なことだからです。

それは、前者の「求道者としてのわきまえ」に比するなら、井上神父の「人としてのわきまえ」ともいうべき姿勢といえるでしょう。

 私事にわたりますが、わたしは小学生のとき祖母を亡くしました。彼女が臨終のとき発した言葉は、小学生のわたしには大変ショックなものでした。

それは、わたしが勝手に想像したようなドラマチックなものではなく、「あの気丈で優しかった祖母がなぜ・・・・」と疑問を抱く――他言することが憚られるような言葉だったからです。

しかし人間の死の現実とはそういうもの、少なくともそういうものを含むものだと思うのです。おそらく、こうした経験はわたしだけでなく、どなたかの死を看取ったことがある方なら、しばしば経験するところではないでしょうか。

あの臨終のひとことが、何か大きな意図をもって発せられたのだろうか、ましてやそこに、その人の人生が集約される、などということはそう簡単には言えません。

同じことが、少なくとも人間イエスに対しては言えるのだと思います。井上神父は、そうした人間存在のリアリティを知ったうえで、イエスの「断末魔の叫び」を「ただそれだけ」と受け取ったのではなかったでしょうか。

それは神父の、人間としてのまなざしの優しさを物語るものでもあるように思えます。
と同時に、「叫び」の「意図」を「推論」しようとすること自体が「傲慢」であり、「失礼」なことと主張する井上神父の姿勢には、何事も理性で分析しようとする主知主義への反発を、垣間見ることもできるのではないでしょうか。
(つづく)
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