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第156号08年12月-作品とおたより(*主宰寸感)  

一宮市  西川珪子

燃ゆる窓冬夕焼の浄土かな

萩の道七八本を貰い受け

この辺りまだ残りをる野菊かな

かきつばた枯茎振ればカラコロと

精一杯いまを生きてる秋桜

天国の夫に呼び掛け秋刀魚焼く

飛べないの枯蟷螂を置く叢


俳句に触れる事さえなかった私に、「余白の風」は俳句を思い起こさせてくれました。感謝しています。十一月二十四日、ペトロ岐部と一八七殉教者列福式が長崎で行われ、当教会も出席された方が多く見えました。

 当教会では一宮周辺に殉教された方々が多くおられ、その方々をお守りして下さった一般市民の方々、お寺の住職の方々の労をねぎらい、記念碑を建立。その除幕式が三十日に野村司教来席ののもとに行われます。

 多くの殉教者の方々のお陰で今の私たちがあるのだと思うと、身の引き締まる思いがします。

*「列福式」私は、インターネット中継で見ました。たぶん三時間以上かかっていたと思います。盛大でしたね。殉教者はもちろん、「天国の夫」ご主人、すべての死者にも祈られている有難さを、この機会に振り返りたいと思います。


立川市  新堀邦司

長崎に平和を祈り聖母祭

天上の花野に遊びゐたるかも

天金の聖書開くや秋の朝

(「日矢」五二六号より)

*新堀先生の共同執筆されている『講座 日本のキリスト教芸術3文学』(日本キリスト教団出版局)たいへん勉強になります。わたしたちが今こうした求道俳句をやらせていただいているのも、過去のキリスト俳人・文学者の礎あればこそと思います。歴史に学ぶ。


名古屋市 片岡惇子

今在りし喜びほのか菊香る

残照や菊それぞれに色映えて

枯菊を束ねて父のミサとする

枯菊や許し許され両の手に

激しきは内よりの声冬の滝


玄関を入ると飾り台の上に置かれた卵形の黒い鈴玉が目に飛び込んで来ます。その中には一〇八個の小さな玉が入っていて、手に触れ転がすと、その日の私の心の状態で、せせらぎのような涼やかな音であったり、激しい滝の音のように響きます。

一見黒に見えるが、微妙に薄青緑かかった部分、銀色かかった部分があり美しい。縦二本入った扉のガラスから洩れる朝日を受けた玉は、特別に美しい色合いとなる。陶芸家の心が伝わって来ます。私をとらえ、手に入れた作品です。

三重県四日市市にアトリエを持つ陶芸家伊藤悦子さんは、三十八歳で失明し、生きる希望を失った時イエス様に出会い、陶芸に出会い生きる希望を思い出しました。研ぎ澄まされた心の目は、次から次へと不思議な型と音を生み出し、予期せぬ苦難を乗り越え、底抜けに明るく生きられる彼女の中に、神様への強い信仰を見ます。

どのような出来事も、神様の愛の働きがあることを信じさせてくれます。私にとって彼女との出会いは、大きな喜びです。

*信仰宣言のなかに「聖徒の交わり」ということばがあります。私たちの人生は、人と人、そして自然をも含めた「出会い」「交わり」のなかで営まれる。いやむしろ、その交わり・出会いそのものなのかもしれません。


  豊田市  佐藤淡丘

丁寧にエンピツ削る日の短か

ほつこりと縁に小春の老女ゐて

池めぐる人影やさし返り花

夕日浴びわれを手招く花芒

青空を逆様にして大枯野


十一月の小春の一日、心友の招きで日本キリスト教団の聖研祈祷会に出掛けました。
 時節がらイエス誕生の講話が中心。担当の牧師先生がその中で概ね次のように語りました。

 降誕祭は、神が人となったことを記念する日である。神が人となる、これは驚くべき事実であり、奇跡中の奇跡である。人間が神になることは世にある話だが、神が人となることは今迄にない事柄であり、ここに歴史的存在としての神の突入があったのだ、と。

 これを聴いて、私はハッと目の醒める思いがしました。今迄待降節を含めクリスマスをなんと甘く、幻想的にしか捉えていなかったか、受肉の福音を我がこととして受け止めていない自分に気がついたのでした。

〝神が人となった〟今年こそよいクリスマスが迎えられる。そんな気分の今日このごろです。

*牧師様の良いお話ですね。キリスト教の教義としては知っていても、「自分のこと」として受け止めていないようなお恵みは、わたしたちにはたくさんあるのだと思います。そして不思議なことに、そのお恵みに気づかせてくれる人や出来事が、意外なところから現れたりします。アッバはそういう巧みな方なのですね。


文京区  大木孝子

葉脈は命脈なりし露けしや

赦しとはたとえば棉の吹くに似て

なんとまあ冥府通信九年母に

聖なるかな聖なるかな凍裂の白樫よ

だんだんに肺腑蒼みし冬座敷

天邊のいまはの皇帝ダリアかな

(「野守」三四号より)

*「葉脈は命脈」という鋭い観察。「赦し」とは、ある種のゆるみでもあると思います。「棉の吹く」ような曖昧性がいい。「だんだんに」の句は「しんしんと肺蒼きまで海の旅  篠原鳳作」を、また「天邊の」句は塚本邦雄の「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」を連想しました。


秦野市  長谷川末子

一茶忌の星の煌き射るごとく

落葉掻袋閉じても舞ふてくる

冬晴れに任せて干すや目一杯

冬ぬくし葉の音風の通り道

その昔嫁ぎし勤労感謝の日

曇る日も感謝となりて暮の秋

洋梨の滴り雅歌の二章読む

冬近し心すまして準備して

神の技芽生へも落葉降る夜も

茨の実かつて頭に茨の輪

落葉掃き五十メートルほどさっさ

落葉はき明日は雪とからかわれ

落葉掃き笑顔がそっと寄って来る

落葉はき赤や黄色や幼い葉

落葉掃きぎゅうぎゅう詰めの口を閉じ


数日曇ったり降ったりの寒い日が続きました。北風に髪は乱れ、衿元をしっかり閉じました。昨日、今日二日続きの暖かい晴天は、待ち焦がれていた植物と同じ気持ちです。

朝から喜びで一杯になっています。今日こそ意地悪を封印したいと考えています。天候に左右されがちな心を操縦するのは大変です。暴れ馬なので。

*天候やちょっとした気分に左右されるのが生身の人間です。でも末子さんは、そういうままならぬ心をしっかり、正直に、そしてたくさんの句作に見事に昇華しています。句を作る者も読む者も、ともども信仰の救い、俳句の救い――イエス様と俳句の恩恵にあずかる、それこそ、求道俳句のめざす方向です。

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本誌「余白の風」(一九九〇年創刊)は、井上洋治神父の提唱する「南無アッバ」の心を生きるため、俳句を中心として、共に道を求め、祈り合うための月刊誌です。

詳しい参加規定は、余白メールにてお問合わせください。
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