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第155号-10月南無アッバミサ前講話6  

これを始めてお読みになる方も多いかと思いますが、今こちらにお出でになっている方々、それはわたしも含めて「井上ファン」といったらいいでしょうか、そういう人たちからは「いや、ちょっと待ってくれ。

それはユダヤ教とキリスト教をごちゃごちゃにしているよ!」と、いうふうな声が聞こえてきそうです。「待った」をかけたい、そういう気持ちだと思います。

しかしまだまだ日本では、求道者を含めて一般的には、ユダヤ教とキリスト教をかなりオーバーラップして見ている人が多い、そういう現状はやはり否めないのではないか、という気がします。

ですから、さきほどの「信仰と行い」ということで振り返りますと、ここでいう「父子」の関係――これをしなかったら罰するぞ!というのがある限りは、なかなか自然な行いというのは出てこない。

これが、鈴木先生が言ってるように、父と母を含めた「親子」の関係にいくまで、なかなか安心感が持てない。そうすると、おそらく妙好人という人たちは、そういう安心感のもとに、ああいう善き行いを自然に流露させたのではないか、ということをわたしは考えてみたわけです。

そうしますと、わたしたちが今、そしてこれからキリスト教のなかでやっていくことは何か、やはり「アッバ」――当然でしょうが、鈴木先生のこの御本にはアッバは出てこないんです。

ですからアッバを再発見した井上神学で――エレミアスから来ているわけですが――ここの部分を相当に強調していかなければいけない。

日本のこれからのキリスト教では、もっともっとアッバ――わたしは「アッバ神学」とよばせていただいていますが、慈父の神、先ほどの親子関係にまで達するような、抱きかかえてくれて、けっして離さないのだという安心感が持てるアッバの神という所を、もっともっと強調していかなければ、という思いを強くしたのです。
つづく
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