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第155号-10月南無アッバミサ前講話5  

<・・・・それからキリスト教中には、「親子」という「父子」が目につく。東洋では、親というと、父も母も含めて、慈愛の塊りである。彿教はこの慈愛を大慈大悲の人間性化したものと見ている。

ことに他力宗では親の字義に尋常一様ならぬ重さをおくのである、即ち親は絶対他力愛そのものだということになった。・・・・

キリスト教の父子の観念は大分他力宗のと違う。キリスト教の父と、後者の親との間にはかなり隔たりがある°これはキリスト教が歴史的にユダヤ的神の思想に影響せられるところが多いからであろうか、神なる父は畏敬の対象で、他カの親ほどに絶対愛の持主にはなれないようだ。・・・・

このような見方がキリスト教に許されるかどうか、自分にはわからぬが、他力宗のおやはこどもを罰することをしないのが、その最も特異性だといってよい。・・・・おやは絶対慈悲で、衆生の罪業を責めることは決してしないのだ。

・・・・彿教の罪業観は、倫理性のものでなくて、人間の宗教性から出発する。キリスト教のは、多分に倫理性を帯ぴている、・・・・それで、愛の神の一面には忿怒の他の面がある。これに触れると、人間はひたすらに消え入るぱかりである。

キリスト教の倫理性は、その強いところで、またその短処だといわれぬこともなかろうか。>(一六六~一六九頁抜粋)
つづく
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