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第155号-10月南無アッバミサ前講話3  

そうすると律法の替わりに、別の何かしなければいけないという焦り――わたし自身もそうでしたが、洗礼を受ける前後くらいのとき、洗礼を受けたら、たとえば教会に毎週行かなければいけないとか、なるべく嘘をついてはいけないとか、心の中でいろいろ道徳的なことが膨らんできた時期がありました。

今現在も、私のところにときどき、「洗礼を受けたいのだけれども、何か新たな義務を課せられる気がして、躊躇しているんです」といった相談を受けるのです。

先ほど、山根先生の方から、わたしの連載のお話もご紹介頂きましたが、あの「井上神父の言葉に出会う」のなかで――ああ、もう七年も経ったかなあ、と思いましたが――一番反響があったのは、第一部の「道徳主義をこえて」という題目で書かせて頂いたときでした。

そのときはファックスとかお手紙で、「自分もそういうふうに思っていた」といったことを、言われた記憶があります。

そういう「信仰と倫理」、「信仰と行い」ということを考えたときに、ふっと思い浮かんだのが、浄土真宗――井上神父様は法然の本を書かれていますが、そのお弟子といっていいでしょう、親鸞さんが鎌倉時代に立てた宗派です。そのなかに、「妙好人」という方々がいらっしゃいました。

その多くは、江戸時代から明治にかけて、在家の浄土真宗の篤信者――南無阿弥陀仏の信心に決定(けつじょう)した方たちです。そしてその人たちは武士とか、公家とかではなくて、市井の無学な職人や農民だったわけです。そういう人たちが信心決定したということ。
つづく
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