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求道俳句とキリスト教「余白の風」第154号2008年10月  

Copyright©2005余白 平田栄一,All rights reserved.

主宰近詠  蓮田市 平田栄一

今日ひと日正しく生きて蝉生る

山下るイエスに南無の花手向け

善悪の彼岸は霞む秩父山

獄中のペトロを訪えりパウロ祭

痩せてゆくユダにあらずや夏の墓

名は滅び思想は残る夏の川

アバよりのともし火をもて一隅を照らさば足れり生きる甲斐あり

あちらから心に当たる南無アッバ身内(みぬち)に風をお通し申す

南無アバとついに称える日本のキリスト教は今に始まる

南無アッバ南無アバとだけ繰り返すやっぱり一人の聖堂が好き



作品とエッセイ(*主宰寸感)

名古屋市  片岡惇子

無花果の二つに割れて木に留む

捨てきれぬ自我の重さや秋暑し

葡萄の種み言葉となりて地に落ちし

気付かされし一つの道あり萩の風

秋桜パウロの手紙凍み込みし


私の家から道一本隔てて小公園があります。夕方四時頃になると、にわかに賑やかな子どもたちの声が聞こえ、暗くなっても続きます。十五年程前から山林が宅地化され、周辺は高層マンション。

徐々に戸建ての住宅が増えてきた地域です。まだ空地が見受けられますが、特に若い世帯が多く、至るところで、元気に遊ぶ子どもたちの姿が見受けられます。思いきり時間を忘れて遊んでいる姿を見るのは、嬉しい限りです。又、大きな声で挨拶を交わしていきます。

世界中に飢えや戦争、病気で五秒に一人の子どもが亡くなっている現状を知らされ、切ない思いが心を覆います。何も出来ない無力感が覆いますが、ひと時でも、この子どもたちの力一杯の声に、元気をいただいています。世界中に子どもたちの明るい声が溢れることを祈ります。

この公園の半分は、とんぼの保護をしている沼地となっていて、今、そこから赤とんぼが、この地域にあふれ出て来ています。

*「無花果」の句、わが内面を赤裸々に覗き込むような印象で佳。最後の「赤とんぼ」が、その前に書かれた世界の悲惨を受け止め「あふれ出て来て」いるような気持ちになります。わたしたちの「捨てきれぬ自我」、他者への思いも、あわせてアッバに委ねていきたいと思います。

豊田市  佐藤淡丘

卵管を引きずり蟋蟀日当りに

法師蝉一頭となる雑木山

秋しぐれ古びし門をくぐりけり

まんじゅさげガードレールの西・東

切り通し抜けゆくまでの星月夜

聖体訪問ありのまま


ゆきつけの教会があるという安心感は、ときに嬉しいものです。日曜日のミサ以外でもお聖堂は静かに開かれ、我々の訪れを待っているのである。昔から「聖体訪問」はとても大事なことだと教えられているだけに、聖堂の一角に坐り赤いランプの点ったご聖櫃を眺めるひとときは、また格別のものがあります。

秋の一日、遠隔地でみつけたカトリック教会に出会ったときのよろこびも、自分の家に帰ったような親しみを覚えるものです。

まさに「聖なる普遍の教会」の一員であることを喜びながら「南無アッバ」と唱えるのです。

*上に「南無アッバ南無アバとだけ繰り返すやっぱり一人の聖堂が好き」などと詠ったように、実はわたしも平日一人でお祈りに行くのが大好きです。ミサもいいですが、どこかその時とは違ったお恵みを頂けることもあります。「卵管」の句、生きることの生々しい現実と、それを暖かく照らすアッバの「日」を思わせ意味深長。

秦野市  長谷川末子

貧しさが相手を思ふ夜長かな

秋野菜青虫丸い穴をあけ

雷の去りて湧きたつ虫の声

守られて心やすけき秋一日

命ある限りは恵み秋闌ける

昨夜鳴き今朝横たわるきりぎりす

夫を呼ぶ弓張月の優しさに

菓子袋触れる尾花や田舎道

禅寺を下りて白し男郎花

ねこじゃらし幼き頃の息子達

サッカーの練習試合ばった飛ぶ

地を見てる糸瓜はきっと哲学者

老一人花壇の手入れ秋の草


*たくさんできましたね。句作も食欲のように、秋になると湧いてくるのかもしれません。あふれたところは次回にまわしました。どの句も一読わかりやすく、しかも求道俳句と見たときに、味わい深いです。今号では「地を見てる」の句が佳。「糸瓜」の垂れ下がってふらふらか、どっしりか、している姿を「哲学者」と見立てた。

文京区  大木孝子

さうかさうか蜩そんなにさみしいか

火蛾狂ふ黄泉よりの使者は此處まで


    夫卓也
ひぐらしや望郷の稿浮き沈み
(「野守」第三三号より)

*たしかに「蜩」は「さみしい」ですね。あの声を「楽しそうだ」と言った日本人はいなそうですね。考えてみれば不思議なものです。「黄泉」とこの世の境で舞う「火蛾」は、十字架を背負っているかも・・・・。

一宮市  西川珪子

空蝉を片隅に置く祈りかな

秋草を活ける形見の器にて

糸蜻蛉舞い込む部屋の秋立ちぬ

風に揺れ風に語らう蜻蛉(あきつ)かな

罪深き吾を癒しぬ曼珠沙華

再びはまみえぬ人や秋夜星

偲(おも)い出を手繰り集める秋彼岸


*身近な方が亡くなっていく。世代が巡る人生とわかっていても、別離は辛い、どうにもやるせない思いが残ります。先にあちらに行かれる人に、「南無アッバ、イエス様よろしくお願いします」と祈るばかりです。


カトリック俳人の短い黙想話:余白
九月十五日(月)「悲しみの聖母」記念

 今日は、マリア様がイエス様の御受難のとき、十字架のもとに佇んで、母としてその苦しみを共にしたことを想う記念日です。それゆえ福音朗読は、ヨハネによる福音書十九章二五~二七節、マリア様が十字架のそばに、マグダラのマリアたちと佇んで、イエス様が愛する弟子に、お母様であるマリア様を、「これから頼む」というようなことをおっしゃるところです。

 死にゆくイエス様が老いていく母を気遣う・・・・ちょうど今日、日本では敬老の日にあたっているのですね。これも何か縁があるような――マリア様のいろいろな記念日は、不思議なことに日本の暦、とくに戦争に関する事柄と重なることが多いのです。隠れキリシタンの熱心なマリア信仰以来、何か強い因縁のようなもの感じます。

 今日の第一朗読の方では、『ヘブライ人への手紙』五章七~九節が読まれますが、これも非常に印象的な箇所です。イエス様は「激しい叫び声をあげ、・・・・祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられ」た。「多くの・・・・従順を学んだ」ので、「完全な者となった。」わたしたちもこのイエス様に従順であれば、永遠の命が得られるというのは、非常に力強い、そしてある意味わかりやすい福音表現になっています。

 ここのところ、「激しい叫び声をあげ・・・祈りをささげ」「畏れ敬う態度」を示されたということ、それはまさに「南無アッバ」の姿勢といえます。つまり、イエス様の十字架での激しいお苦しみの「叫び」そのものが、「南無アッバ」を象徴していたのではないか、わたしにはそう思われるのです。

 人間は必ず老いていきます。その老いのなかで様々な苦しみ――わたしの父母も今のところ健在ではありますが、老いの波といいますか、当然あちこち病んだり衰えたりしています。そういうなかで、神様に対して救いを願う。そういうことがそのままイエス様のあの「苦しみ」「叫び」につながる。そしてそれが、意味あるものとして、天国に導かれる。そういう信仰が、この『ヘブライ人への手紙』の中には表現されているのではないかと思います。

 そういう意味で、わたしたちの苦しみ、とくに老いていくときの苦しみが、けっして無駄なもの、無意味なものではないのだということを、今日はとくに「悲しみの聖母」マリア様の記念日にあたって、思い起こしていきたいと思います。

南無アッバ、南無アッバ、南無アッバ。
―――――――――
主宰著作『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫)、『俳句でキリスト教』(サンパウロ)他。
本誌「余白の風」(一九九〇年創刊)は、井上洋治神父の提唱する「南無アッバ」の心を生きるため、俳句を中心として、共に道を求め、祈り合うための月刊誌です。どなたでも、賛同される方の参加をお待ちしています。(原稿採否主宰一任)

○締切=毎月末
○年会費二千円(半年千円 A4版誌代・送料共)
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