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6.わが「思い」も御手のなか-第20回すべてはアッバの御手に-『風』誌第79号  

『風』誌連載の「福音ばなし」をまとめ直した最新刊『イエスの福音にたたずむ』(日本キリスト教団出版局)において、井上神父はイエスの受難物語に関連して、次のように語っています。

<イエスさまは、アッバの望んでおられることを何よりもまず大切にして生きておられたのですが、これは大変なことです。私たちが、苦しいことや悲しいこと、別れなど、すべてそういうものをなるべく避けて生きていたいと思うことは当然なことなのです。

しかし、それをアッバがお望みになった時には「南無アッバの心」で、アッバからお受けすることができる力と恵み、そして、アッバがほんとうに私たちの人生を通して人々に働いておられるのだということを心からそうなのだなと思えることは、お恵みでしかないのです。そのお恵みをいただけるようにこの受難物語を読みながら思います。>(「イエスの最後の場面」二〇三頁)

ここにはまず、イエスにならい、わたしたちの苦しみや悲しみも、もしアッバがお望みになる時が来たなら、「南無アッバの心」でそれをお受けする「力と恵み」を願うことが勧められています。

そしてそのことと同時に井上神父はもう一つ、非常に大切なことを明確に述べているのです。それは、アッバがわたしたちの人生を通して働いてくださっていることを「心からそうなのだと思える」――納得すること自体が、アッバからの「お恵み」なのだということです。

少し敷衍します。前述したように、「心の底」とは無意識です。右の「心から」とは「心の底から」つまり「無意識から」と置き換えてよいでしょう。そこから「・・・・そうなのだと思える」のは、無意識から浮かび上がってきたものが、表層意識としての「私」に自覚されるということです。すなわち、「心からそうなのだと思える」とは、無意識から表層意識までも含めた「心」全体で納得する、ということです。先の「聖書講座」最後の願い、「心と体全体で受け止められる」というのも、同じ意味だと思います。

しかし、その「心」全体がどう思うかは「お恵みでしかない」――アッバの御手にあるということです。なぜなら、わたしたちの人生がアッバの働きの場であるなら、その一部である「心の思い」も、本来すっぽりアッバの御手の中にあるはずだからです。そして「お恵みでしかない」ということは、表層意識としての「私」がどう思うかさえも、お任せすることを含むのです。そのことを承知した上で、「そのお恵みをいただけるように」願うということです。

確かに、わたしたちが十分「心と体」でイエスの福音を受け止めるには、長い道のりを要するでしょう。しかし、事あるごとに、「南無アッバ」「南無アッバ」と唱える――ままならないわたしたちの「心の思い」をもアッバに委ねる。このことは、求道者として常に立ち返るべき忠言のように思います。(つづく)
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