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5.「南無アッバ」に向かって-第20回すべてはアッバの御手に-『風』誌第79号  

 「聖書講座」をしめくくるこの部分は、時間にして約十五分という短いものですが、『フィリピの信徒への手紙』から説き起こし、パウロの姿勢、芭蕉や良寛からの学び、そして苦しみや死の意味にまで及んでいます。井上神父がこれまでさまざまな著作や講演で繰り返し語ってきたことが、平易にまとめられており、〝「書き言葉」と「話し言葉」が極端に違う〟と自らいう神父ですが、その趣旨はきわめて明瞭です。

すなわち、イエスの生涯を頂点として、パウロの生き様、あるいは自然のなかで無心に咲き、散っていく草花に象徴されるように、わたしたちの人生は、本来わたしたちの手中にはなく、神(アッバ)が、ご自身の業を現出させる場なのだ、ということ。

そのことをしっかり自覚して生きることの意味と大切さ。そして、その喜びと平安を説いています。本稿ではこれまで、井上神学の多様性と一貫性について随時指摘してきたつもりですが、右にみたアッバの主導性と自己相対化原理――アッバ中心主義は、神父のすべての著作・講演に通奏低音のように常に響いている基調といえましょう。

 とはいえ、井上神父が指摘するように、わたしたちを回心に導くのは、深層意識的体験であり、その点でいえば、神(アッバ)は、わたしたちの無意識に働きかけるものです。ということは、なかなか「私」の表層意識や感覚にまでは上っては来ないかもしれない。ここに、わたしたちの人生は神の働きの場なのだという道理はわかっていても、心底で捉え切れない――否、心底に響いているはずの神の声がしばしば「私」に自覚できない、ややもすれば確信が持てない、という不安が起こるのです。

それゆえ井上神父は最後に、「それが頭でわかるだけではだめで、心と体全体で受け止められるようになりたい」と、求道者を代弁して自らも願いを表明しているのだと思います。そして、「頭だけではなく、心と体で」という言い方が、まさに前述した聖書の「学者読み」「体験読み」に対応していることに、わたしたちは気づくのです。

一九九四年の「聖書講座」はここで終っていますが、神父の求道はこの「願い」を述べただけに留まらず、これを実現すべく、その後も己に正直に、真摯な模索、努力が地道に続けられます。それは具体的には、日本人の感性に訴える「祈り」を求める道のりだったのではないかと、筆者はみています。その結実が数年後に辿り着くことになる(神父の言葉では〝流されついた〟)「南無アッバ」という事態なのです。このことについては、またあとで改めて触れてみたいと思います。
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