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4.死を通して働く神-第20回すべてはアッバの御手に-『風』誌第79号  

 わたしはこの句から、やはり思い出すのは、イエス様の生涯です。イエス様の十字架の死というものほど、おそらく、人間の生涯の中で、あれほどの大きな苦悩と、あれだけ大きな屈辱感――ほんとうにみんなの前で裸にされて、吊るされるわけです。おそらく、それくらいなら、死んだ方がいいとわれわれは考えるんじゃないかと思います。そういう大きな屈辱ですね。それから、弟子たちからも見捨てられて、弟子たちがみんな逃げてしまう。女性の弟子たちも慰めに出てこない。そういう孤独です。人間の人生として考えられる最も深い孤独と屈辱と苦悩が、あの十字架の死に凝結しているわけです。

 しかしまさに、そのイエス様の泥だらけになった、その十字架の死において、救いが、神様の救いの業が現存している。ご自分の業を現しておられるのです。ですから、イエス様のその死に比べれば、わたしたちの人生は恵まれていて暖かなものです。

 ひとりの人の死を通して神様が、ほんとうに働かれるというのは、たいへん不思議なものです。わたくしのような仕事をしていて、人の死というものに接していると(わかるのですが)、人間の死というのは、その人が死んでから不思議な力を残すものです。それはもちろん、イエス様の死と比べるようなものではないですけれども、しかしとても不思議なものだなあ、ということを感じさせられる。それはやはりその人の死を通して、神様が人々に働きかけておられるものなんだろう、というふうに思います。

 そういう意味で、信仰の目というものがもたらしてくれるもの、それは人間の目から見るとマイナスでしかない、マイナスのイエス様の死というものが持っている意味、それは神様がそこにおいて働かれる、イエス様ご自身が言っておられるように、イエス様ご自身の人生は御父の御旨を果たすためのもの、御父がご自分の業を御子の生涯において果たされるわけであり、わたしたち一人ひとりの人生においても、神様がご自分の業をなさるということです。

 それがなかなか頭でわかるだけではだめで、やはり心と体全体で受け止められるようになりたいと、わたくしも願っているわけです。それが、信仰の世界がもたらしてくれる平和と喜びというものではないかと思っています。>
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