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3.芭蕉、良寛から-第20回すべてはアッバの御手に-『風』誌第79号  

 そういう意味で、日本人としてわたくし流にこれを理解させてもらいますと、芭蕉の句に――わたしの好きな句ですけれども、

  山路来て何やらゆかしすみれ草

という句がありますね。あるいは、

  よく見れば薺花咲く垣根かな

という句とかね。生きとし生けるものは、それぞれの命を生きている。それで、何が芭蕉の心を打っているかというと、山道に来て、小さな「すみれ」の花が咲いている。「すみれ」の花は一生懸命、無心にそこで咲いている。でも、たくさん人が通って来て、うんと褒めてくれればいいとか、あるいは、こんな所で咲かないで、もっとたくさんの人が褒めてくれるような所で咲きたいとか、そういうことはなく、じっとそこに咲いている。だから「すみれ」はもっと大きな命の働き――芭蕉の言葉で言えば、「造化」です、造化の営み・・・・。「造化に従い、造化に還れ」というのは、芭蕉の俳諧の精神だと思いますけど、この造化に従って造化に還っている「すみれ」の姿というものが、芭蕉の心を打っている。

 「薺」――ペンペン草というのは、人間の視点から見ると、雑草だ、たいしたものじゃない。人間の目から見ると、桜や梅はきれいで、バラはすばらしいということになる。ぺんぺん草はだめだ、ということになる。しかし実際には、大自然の命が自らを表現している場としては、ペンペン草もすみれも桜も梅もかわりはない。人間の小さな計らいから見ると、そこに差が出てくるというだけであります。

 すなわち、大自然の命が自らを表現する場、その大きな神様の営みを表現する場としてのわたしたちの人生。信仰がもたらしてくれるもの、それは、そういうことが見えてくることだと思います。

 そういう意味で、一本のペンペン草、一本のすみれとして、大きな大自然の命に生かされ、大きな大自然の命が自らを表現している場として自分の人生が見えてくるということが、非常に重要なことなのだと思います。

 そうすれば、たとえば、元気でいっしょうけんめい働いて、たくさんのものを作ったり、たくさんの人を助けたり、あるいはいろいろなものを書いたりしている、人間の目から見て、ほんとうによく働いている人と、あるいは、もう病気になってしまって、寝込んでしまい、何にもできない、他人の世話になるばかりである――。そのような状態が、片方の人はよく働いている、片方はよく働いていない、というようなのは、非常に小さな見方であって、そういう人の孤独な苦しみのなかでこそ、神様の業は、もっと鮮やかに実現されていくかもしれない。

 それは、神様がご自分の働きを現前させる場なのだから、人間がチャカチャカ動いて、代議士になってどうとか、社長になってどうとか、というのと、寝たきりと――神様の現前させる場としてみたら、どっちがどうかわからない。

 ということがわかれば、どんなに歳をとって孤独になり、苦しみだけが襲って来ても、パウロが言うように、この苦しみとこの屈辱のなかで、神様の業が実現されていく場なのだと思えば、その苦しみには大きな意味が出てくるはずです。この苦しみに、孤独や屈辱に意味がなかったら、わたしたちは耐えられないのです。これは、フランクルも言っています。しかし意味が出てきた場合、わたしたちはそれに耐えることができる。

 実際たとえば、子供のためにやることなら、どんな苦しいことでも耐えられるでしょう。しかし、何のための苦しみだかわからなかったら、耐えられなくなる――。
 これも非常に好きな、わたしがよくいう、良寛さんが死ぬときに口ずさんだ句ですけれども、

  裏を見せ表を見せて散る紅葉

 裏を見せたら笑われるだろうとか、そんなことをやっていれば黒いどぶのなかに落っこちちゃうだろう、みんなが笑うだろう、ということはなく、ただ大きな風に任せて散っていく紅葉が、はじめてわたしたちに大きな秋の風を告げる。
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