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2.「聖書講座」の結び-第20回すべてはアッバの御手に-『風』誌第79号  

 「無意識の信仰」――無意識に働くアッバの主導性への信頼、という点で、もう一箇所取り上げておきたいのが、次の聖句です。

 <あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。(『フィリピの信徒への手紙』一章六節)

 ここには前句とちがい、無意識の「思い」を直接連想させるような言葉は使われていませんが、わたしたちの「中で」決定的にアッバが主役となる人生への信頼と「確信」が、述べられています。

 井上神父は一九九四年(六七歳)、十一回にわたって行われた「聖書講座」の最終回、「信仰の世界がもたらしてくれるもの」と題した講話の最後の部分で、この聖句を引用しながら、大変印象的な話をしています。講座全体をしめくくるに相応しい内容、語り口で、筆者自身も何十回となく聴いているところです。お聞きでない読者も多いと思いますので、ここで少し長くなりますが、その最後の部分のテープを起こしながら、ごいっしょに味わってみたいと思います。

(注:以下は、筆者自身がテープを聞きながら、できるだけ忠実に文字に置き換えましたが、趣旨を損ねない範囲で反復などを省略したり、意味が通りやすいように若干の加筆をするなど、適宜編集部分があることをお断りしておきます。途中の小見出しも筆者によるものです。

 なお、インターネットにより、この「聖書講座」全十一巻を聞くことができます。
http://page.freett.com/yohaku5info/index.htm)

 <・・・・(『フィリピの信徒への手紙』一章六節を)お祈りのときしっかり黙想してください。

 この句は、男子の信者が司祭に叙階される時に、司教が一人ひとりに向かっていう言葉です。あなたの中で善い業を始められた神様が、あなたの中でその業を完成してくださる、というのですから、主語はもう「わたくし」ではないのです。神様がわたしにおいて、その業をなさる。これは、司祭職とは限らず、すべてわたしたちの人生は、全部そうなんです。・・・・わたしたちの人生は神様がはじめられた業を、神様が完成なさる。そうすると、わたしたちが自分で見て、こうするとか、ああする、こうしたいというのではない。神様がなさる。

 『コリントの信徒への手紙二』四章一〇~一一節には、こういうパウロの言葉があります。
 「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」

 これは、何千キロの伝道旅行をして、山賊に会ったり、反対者に殺されそうになったり、海では遭難したり、様々な苦しみを経てきた彼が初めて言えることです。すなわち、この自分の苦しみというものは、イエス様の命が現れるため――自分を表現するための自分の人生でもないし、自分の苦しみでもない。それは、イエス様がご自分の命を現わされるということなのだ、というわけですね。これは主語が逆転している・・・・。
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