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1.ヤーウェとアッバの主導性-第20回すべてはアッバの御手に-『風』誌第79号  

 前回は、意識的「私」に対する無意識の他者性について言及しました。少し敷衍すると、一般的に「意識」が言語・時間・社会(世間)・理性的特徴を持つのに対して、「無意識」は、視覚・無時間・非社会・感情的特徴を持っているといいます。また、「無意識」はいわば「駄々っ子」のようなもので、「意識」はその「保護者」の役割を果たしている、などというたとえが使われることもあります。いずれにしろ、「私」意識には届かない奥深さ――深層意識が、わたしたちの行動、人生に、重大な影響を及ぼしていることは、まちがいないでしょう。

 遠藤氏が指摘したように、この無意識――阿頼耶識には、人間の「ひそかな欲望」がつまっており、それは、表層意識として自覚される「私」には、思いも寄らない、おどろおどろしい感情なのかもしれません。昨今世間を騒がしている、一般の目からは理解しがたい殺傷事件などにも、無意識のなかに蓄積(抑圧)された感情噴出の怖さが想像されます。

 にもかかわらず、新約時代の人々は、遠藤氏と同じように、無意識に働きかけて、人を動かす、アッバの絶対的主導性を信じていたのだと思います。前回引用した『エフェソの信徒への手紙』の他の箇所からも、そのことがうかがえます。

 <わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に・・・・。>(三章二〇節)

 たしかに、旧約聖書にも、
 <天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。>(『イザヤ書』五五章九節)

といった、神(ヤーウェ)の絶対的主導性を表す思想が根本にあります。しかし同時に、ヤーウェの「道」、その「思い」に従わなかった者、悔い改めなかった者には、相応の罰が科せられる、という考えも強いのです。

 一方、新約聖書――イエスにおいては、あくまで「アッバ」とよべる神の主導性であり、旧約の根本にある「裁きと罰」の父性原理を超克しています。井上神父は、『わが師イエスの生涯』で、

 <いかに師イエスの生涯と教えが旧約思想を否定、超克したものであったか・・・・。>(三一頁)
 <師イエスの生涯と教えは、この嶮(けわ)しい、近づき難いユダヤ教の神観の否定と、超克の上にこそ成り立っている。>(三三頁)

と、繰り返し述べています。このことを、先の『エフェソの信徒への手紙』三章の聖句にあてはめていうなら、まず人間の弱さ、罪深さを受け入れるアッバが根底にあって、そのうえで、「わたしたちの内に働く御力によって」自らの主導性を発揮される神、という点に旧約とのニュアンスの違いがあります。上から(外から)働く絶対神ヤーウェと、「内に働く」悲愛の神アッバの違い、ともいえるでしょう。
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