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第2部(14)浪花節的キリスト教1.罪が「わかる」ということ  

「風(プネウマ)」第71号

 これまで、日本人に「わかる」罪概念をめぐって、罪と恥の関係、また恥意識がけっして罪意識に劣るものではないことをみてきました。

 井上神父は、「罪とは神と人々との正しく、美しい関係を破壊すること」「・・・・美しさを汚す行為」であり「その結果の汚れの状態」であると説明します。

それは「エゴイズム」という言葉に集約することもできました。

これらを関係づけるならば、まず、わたしたちのなかにはエゴイズムという心性が根本にあって、それが表面にあらわれた「行為」となり、その結果汚れの「状態」にとどまる。

この一連の態様が「罪」と考えられます。

 ところで、こうした「行為」や「状態」あるいは「心性」を、わたしたちはどのような仕方で「わかる」のでしょうか。

井上神父は、「ものを知る」ということについて、処女作『日本とイエスの顔』の冒頭で次のように述べています。

<ふつう私たちがものを知るには、二通りの方法があります。概念、言葉によって知る場合と、体験によって知る場合です。

・・・・しかし概念や言葉だけでは、そのものについて知ることはできても、ほんとうの意味で、ものを知るということはできないと思います。>(北洋選書版第一章「ことばといのち」一四頁)

 神父はこのあと、西欧近代が重視してきた理性、言葉によるものの捉え方=「について知る」ことだけを絶対視することの危険、また古来日本人は体験的なものの捉え方=「を知る」を重視してきたことを述べています。

今、物事をとらえるこの「二通りの方法」にそって、「罪」がどのように「わかる」のか、考えてみたいと思います。

 右に述べた罪のさまざまな表現――「心性」「行為」「状態」は、井上神父が人生のなかで罪<を>知った=体験知(と呼んでおきます)<について>言葉で説明したもの=理性知(としておきます)です。

つまり、本来体験的にしかわからない罪の内実を、言葉で名指し、概念化した表現ということになります。

どこまでいっても体験知は「ほんとうの意味で」は理性知的な言葉では伝えることができないわけですが、神父も、

<言葉も理性もたいせつなことはもちろんのことです。

言葉がなければ私たちは自分の体験や知識を人に伝達することができません。

パウロも信仰は聞くことから始まるといっています(ロマ書一〇章一七節参照)>(同書二一頁)

と述べているとおり、体験知は理性知によって不十分でありながらも、ともかくも名指され触発されなければ意識化することができない、掘り起こされないという事情があります。

井上神父の罪の体験知が言葉による理性知によって同じ日本人であるわたしたちの罪の体験知を呼び起こす、という仕方で罪が「わかる」ということです。

とすれば要は、その名指し、触発する言葉がどれだけわたしたちの体験的実感に近いか、感性に訴えるかが問われるのだと思います。

 ところで、このように罪について説明されたとき、過去・現在の自分を振り返り、「ああ、あれ(これ)が罪だったのだ」と「わかる」わけですが、こうしたことは、わたしたちが確かに実感をもって「わかる」ことではあっても、そこにしばしの反省や想起の時間を要するのが普通ではないでしょうか。

たとえばある行為にエゴイズムがひそんでいることは、後になって振り返ったときはじめて納得できるというような場合です。


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