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求道詩歌とキリスト教「余白の風」第150号  

プリント版

2008年 6月発行
Copyright©2005余白・平田栄一,All rights reserved.

主宰作品   蓮田市 平田栄一

形なき神に形を与えたる掟に勝る愛というもの

悪霊が豚に移りてなだれ込む海の青さを忘れじと思う

自分だけ安全圏から語ること神はときどき許し給えり

わが詩集夜毎開くと微笑んだ君は寂しく縊死を遂げたり

気がかりがわけなく氷解するような朝の青空道行く人ら

歌に読む死の際数多涯もなし吾が死の恐れ薄められしも

夕暮れは眼の底から冷えてきて悲しい記憶ばかりを起こす


自分の十字架を負う    ルカ14・25~33
日にひとつ覚悟のありて冬隣

どこまでも探す神   ルカ15・1~10
立冬の光ゆらゆらコップ酒

からし種一粒の信仰   ルカ17・1~6
老木の芽吹きを風が見届けし

清められた一人は、神を賛美しながら戻ってきた。  ルカ17・11~19
転生はあるやもしれず冬の虹

「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」ルカ18・35~43
脇役を生き生き演じ文化祭

わたしの家は、祈りの家  ルカ19・45~48
名所なき古里が好き新嘗祭

尼寺にひとり詣でる復活祭

春雷の中に佇む天女かな

死後説くにもっともらしく木下闇

魔が差したという他ない蜃気楼

明急ぐ白き指から湯灌かな

二の腕に痒み走りて夏の月

髪洗う昨日の日記つけてから

三一の主日を流る羊雲

結社という死語飛び交うや初句会

妻と行くミサは降られて聖体祭

苔の花一坪の世を照らすなり

笑顔見て労報われし母子草

豆腐屋が過ぎて春霖強まれリ

風が出て白き日曜暮れにけり

三兄弟揃う杯春の宵

春茜ヒト七色にときめきぬ

神の子を集める神が弥生尽

アブラムがアブラハムへと木の芽時

枯れかけた花が見頃の裏通り

菜の花を抱きて暗し仏国土



作品とエッセイ(*主宰寸感)

名古屋市  片岡惇子

ビア・ドロローサ(十字架の道)
雷雲や十字架の石の道歩く

我十字架あまりに軽き薔薇の刺


エルサレム~ベツレヘム
戦争と平和背をあわせ琵琶熟す

心の壁外せば神の地芙蓉咲く


ガリラヤ湖
主が招く手湖を歩かん夏光る

溺れんとす我にイエスの掌夏の湖


ダボール山
向日葵の一面続き変容の山

エマオ
心燃ゆエマオのミサや夏盛り

聖書の勉強を始め、思いにかられイスラエル巡礼に。
厳しい出入国検閲で緊張し、エルサレムのホテルに着いた時は、疲労は頂点に。スタートすると元気が出て喜びが沸騰。

ついに、イエス様の地に来ることが出来た。生かされている喜び。しかし、イスラエルは、聖書から描いていた地とは違い、オリーブ山も高級住宅が並び、高層住宅が聳え立っています。

十字架の道行きの両側には商店が並び、ガリラヤ湖の周辺は、リゾート地。街の全ての建物が石灰岩で美しく、遺跡と調和していてほっとしました。

黒い帽子に黒いスーツの男性、長いスカートの女性等、何千年もの習慣を守っている人たちがいるかと思えば、肌を晒けて闊歩する女性たち。どっと押し寄せている巡礼団・観光客。人種、宗教の違う人たちが共存、平和で繁栄の道を進んでいる。

花柘榴、ばら、夾竹桃、ブーゲンビリア等花園。琵琶、バナナ、西瓜、マンゴー等果物は豊富。その中で、どこへ行っても銃を持った兵士が目立ち、マグマを抱えた地であることを思い知らされます。

巡礼中は毎日ごミサ。記念の教会、時には修道院の庭で、涼しい風を受けながらのミサ。時にグレゴリアン聖歌が聞こえて来て、胸に沁みます。

ここに在ることの感謝。ミサの中で、特別な願いの祈りをして来ました。憎しみから解放されて許しあい、世界に平和をと。パレスチナ自治区となっているベツレヘムで、幼い少女が、小さな手を重ねて物乞いをしていた姿は痛く心に残っています。

*まこと有意義な巡礼旅行でしたね。たくさんの驚きと喜び、そして悲しい現実も・・・・全部込みで学んでこられた。そして全部がアッバの御手の中のこと。南無アッバ。

―――――――――

豊田市  佐藤淡丘

全島の屋根低くしてさみだるる

かたつむり信じるものは堕ちもせで

鉄線花たおやかに垂れショパン聴く

恥じらひて葉うらをみせる風薫る

転(まろ)びても天に恥じずよ実梅落つ


私の憩の丘(自称・会神の丘)に次のような立看板をかけさせて貰いました。

 この石の
   上を過ぎる
 小鳥たちよ
   しばしここに
 翼をやすめよ
         南吉

板切れに黒ペンキを塗り白文字。日本の足を柵に括りつけ、そばの大石(直径約一メートルの台座)の南東の方向にひっそりと揚げました。

新見南吉(詩人・童話作家・昭和十八年没享年二九歳)の詩「墓碑銘」より拝借した一節であります。この看板は、どうゆう訳か、一ヶ月も経つのにどなたも毀しません。

小鳥たちも寄って来て、いつもより大きく囃し立てているようです。今回、童話の森「新見南吉記念館」(愛知県半田市)を訪ねた想い入れが実現したのです。ああ、なんとうれしい。

*掲げられた南吉の詩と御諸句が、ぴったり呼吸が合っているように思います。第二句、アッバに全面信頼するものは、たとえ虫でも守られる。

――――――――

秦野市  長谷川末子

丹沢の山が消えた
雨雲が消した

相模川に釣竿が並ぶ
釣人の思いは

散歩道に卯の花が咲いた
純白さと香り

御業の不思議
秘密が一杯


*「天は神の栄光を語り、大空は御手のわざを告げる・・・・」(詩編)を思い出しました。そのアッバの御業をしっかり見つめている作者の目が輝く。

――――――――――

相模原市  柳瀬佳枝

哀しみを土に埋めて花一輪

向日葵のやうな修道僧草原に立つ

講堂の如来さまに春の色

雨が寄り添つてくれる春だ

道を説く愛しきあなた神のごと沈黙ありなば狂ほしき御手

月夜
悲しいことがありました
とても悲しいことでした
ひとりぼつちがさみしくて
お空を見上げていのります
月夜が悲しむ夜でした

うれしいことがありました
とてもうれしいことでした
だれかにそつと話したくて
お空にむかつて話します
夜風がやさしい夜でした


*詩形・文体にこだわらず、いろいろ試してみてください。私自身、求道詩歌という考えで実験しています。道を求める文体、という一点でわたしたちは共通項を持っています。

――――――――――

福岡市  牧山 おさみ

最近どうも、若い頃よりも昔からの自分を振り返る事が多くなりました。私は、小さい時から、夕日を見ると泣いていたそうです。赤ん坊には、夕暮れ惜しみをする子は多いらしいのですが自分は、特に酷かったと聞きました。

子供の頃に見た夕日は、きっと自分の心そのものだったんだ!最近そう感じる事が多くなりました。そして今でも・・・・。その夕日は、私の心の中で何時も自分に向かって差し込んでいます。なんだか、秋の夕暮れの様に!

自分は、この心の夕日を沈める為に、生まれて来たのかも?そして、やがて来る日の出に備える為に・・・・

でも、その心の日の出を見ることが出来るのは、私自身では無いかも知れない!?とも、最近感じる様になって来ました。

次の魂・・・?
普通カトリックでは、輪廻転生は教えませんし、自分も俄かには信じがたい部分です。が、もしこんな考え方を見たり、聞いたりしてその日の出は、俺の為、私の為、と、思ってくれる人が居るならそれはそれで、実質的輪廻転生かもね?(笑)なんて、思ったりもします。何でも良いんですよぉ、きっと。老いるまで、死ぬまで心に持ち続けて、その答えを探す。これが人生!

人はなぜ、老いて死ぬのかを考えた事が有りますか? 多数の人は病気で、多数の人は事故で、またある人は事件に巻き込まれ、ある人は自ら・・・・病気で余命幾許も無い老人の見舞いに行くと、苦しそうでは有るのですが何故か思うのです。私はこの臨終の苦しみに耐えられるか?と。

そう、人が老いて死んでゆくのは、正しく臨終の苦しみに耐える為、と、仮説を立てれば、すべては納得行くのではないでしょうか? ご老人は大体、若者よりも目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、歳をとるにつれ人は大半が、若い頃よりも体の機能が衰えてきます。これは多分社会的にはもどかしく、若い人には煩わしい事なのかも知れません。

しかし意味が有るんです。人は、年老いても体の機能が若いままだと、きっとあの臨終の苦しみには耐えきれないのだと思うのです。逆に老いて体の機能が衰えたからこそ、苦しみに耐えられるのではないか?

何時も生きながら、死を考える毎日で有りたいです。

*牧山さんは通称「まっきー」。随分前にインターネットを通して知り合った鉄道マンです。アッバミサにもはるばる九州から来てくださいました。

プリント版
鈴木大拙著『妙好人』ノート

浄土真宗の在家の篤信者を、妙好人と言います。生活と宗教を完璧なまでに、一致させて生きた日本人のお手本のような人たちです。

○羽州弥左衛門
「死の不安」にとりつかれ、それを解決するために、
最上からはるばる本願寺、のちに越後まで、師匠を求めて、1600キロも歩いた。そして、ついに感謝して、念仏の生涯を全うした。(『妙好人伝』より)

――求道心の率直な発露に心うたれます。

生と死を包含した「いのち」という考え方。回心による分別知から無分別知への転換(楠恭著『妙好人を語る』(NHKライブラリー)参照)

そんな折たまたま、NHKラジオ深夜便「心の時代」で、西川玄苔師の話を聞きました。師は、本来曹洞宗のお坊さんですが、妙好人の生き方に打たれ、爾来、お念仏にも目が開けたと言います。とくに、生活と宗教の分離に悩まれた西川氏には、お念仏三昧の中村久子さん(手足を失った篤信の念仏者)の生き方は、大きな救いだったといいます。

妙好人の生き方に興味を持った途端、このような話を、たまたま聞けて、なにかこれも、私にもご縁があったのではないか、と思います。

これから少しく、妙好人の生き方を探ってみたい思います。

――鈴木大拙著『妙好人』(法蔵館)ノート――
  序
趣旨:「妙好人伝」でなく、妙好人の言語文学に現れた宗教体験を問題にした、妙好人研究。

一 妙好人
1 妙好人の特徴


①「文字に乏しい」しかし、他力は煩悩をそのままにして、そこに突入して来る。

②社会的地位が低い。自分の地位に甘んじ、職業に励む。キリスト教に輪をかけて受動的。農民・商人に多い信者。

生活は「ありがたい」「もったいない」「かたじけない」に貫かれ、無抵抗・無害をこえて、積極的に忍苦を楽しむ。ただし、集団生活では問題かもしれない。

例:泥棒――集団中の個々人の責務あり。個人が集団に及ぼす影響。教育重視――他力宗への要望か

往相廻向:個人のため「親鸞ひとりのため」
還相回向:衆生のため

「妙好人は、絶対他力の温泉に、つかりすぎ、ひたりすぎる」――他力宗の感化力の強さ

例:奥能登の栃平ふじの歌
「宗教的感情の高潮した時は、自ら律動的な文学的表現をとるものである。」

<井上洋治神父言葉思い出す:平田註。以下同様>

歌解釈:「自分が鬼の親、子であると同時に、仏の親であり、子である」「法蔵菩薩の修行場所は自分の胸の中」「とにかく、他力者は弥陀の懐に抱きとめられて、そこで寝たり起きたりしているのであるから、いくら貧乏しようが苦しみに会おうが、何も気にかけることはいらぬという――如何にも落着いたらくの境地である。」

<禅の修行をしたわけでもない市井の人が、これだけの境地に達していたという驚きと、憧れがある。>

2 他力安心座談

妙好人の特性のひとつ「ありがたい、ありがたい」が忽如「うそのうその大うそ」という、禅問答のような点。「三戸独笑」と「香林保一」=聾唖者の筆談より(『他力安心座談』)

耳で聞くから逃げる。御法は心で聞くもの。

<「耳のある者は聞きなさい」というイエスの言葉を想う。>

「聞こえるまでもなく、聞かさにや置かぬご慈悲」

あなたは「強盗殺人をした報いで、聾唖に生まれ、地獄から地獄へ還って行く」といわれたが、三界六道を迷いながら、それを憐れみ下さる御親のあることを、知らせていただいた。

<御親こそ、われら言うアッバではないのか>

浄土へ用事はないが、御親が救われようというなら、行ってあげようじゃないか。地獄へは、弥陀が邪魔して行かせてくれない。吾も嘘、御慈悲も嘘、嘘ということも丸丸赤うそ。嘘のある吾故に助かるので、嘘のままが有難い。とうとうみな取られ、方角失って、西方浄土が無くなった。

<禅問答、逆説の繰り返しで、興味深い。自らの罪深さを強く自覚したまま、法悦の世界に遊んでいるような感あり>

3 キリスト妙好人

ある意味、キリストも本質的に妙好人の一人

<大拙がキリスト教をどう見ていたか、興味あるところ>

引用:マタイ11・16誤→11・25~27、ルカ10・21。幼子に示される御心。キリストは妙好人より表現力・宣伝的精神・殉教的気魄優勢。

イエス「子を知る父」「父知る子」
=親鸞「我一人のためなり」
=妙好人「自分のため如来様の苦労」「親さまの慈悲」

キリスト教と他力教の類似と相違。類似:神=父 弥陀=親。相違:「父」「親」に対する「感情」は違う

<日本のキリスト教研究には、ここは重要なポイント>

日本での「親」:父母を合わせた「人格」の観念

父:「父の愛は母ほどに本能的絶対性をもたない、たぶんに倫理性を具えている」

<厳格な父のイメージ>

子としても「あまえる」ことをしない、一種の「謹厳」さ=「個人的隔離性」を自覚。母:母の愛に子は、無条件に屈服→父母性合わせた親の観念。他力宗信者の弥陀:母性優位。「日本人の親に相応するものは、キリスト者にないようだ」

<この点こそが、日本のキリスト教にとって大問題>

「日本的・他力的なるものに至って始めて親が出てきた。」特にキリスト教の「父」=「主」他力宗に「主」の観念はない。弥陀は絶対愛であり、主はまったく感じられない。→衆生からでなく、弥陀の方から自然に「とちらへ当たって来る」→こちらは逃げる→どこまでも追いかける=逃げても助ける親

<1匹の迷った羊をどこまでも探すアッバには、言及ないか>

キリスト教:神の怒り、父子、主従関係。弥陀=親「如何なることがあっても子を罰することはない。」

<この意味で、弥陀的イエス・アッバの姿を、掘り起こすことは、日本のキリスト教にとって、死活問題>
キリスト教には「倫理性が多分に入っている」

<倫理性は父性と強い関連>

しかし、最も宗教的なところで他力集と同じものあり

例:エックハルト緒言紹介

ヨハネ16・16「ちょっと」解釈

<共同訳「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが・・・・>

「ちょっと」:心の翳り=「今、ここ」が無くならないと、神は見えない。

同様に、マダム・ギヨン:全と無

仏教:自力と他力

しかし他力宗では自力は絶対無力ゆえ、他力は「始めからそこにいた」

――――― 後 記 ―――――

 今号は、皆様からのユニークな原稿をたくさんお寄せ戴きましたので、拡大号としました。私も、妙好人のことを少し調べ出し、新しい発見――自身の信仰や日本人の求道性、さらに詩歌実作の上で、多大なヒントを戴きつつあります。皆様共々これからも、アッバのお示しに従って、歩んで生きたいものです。

主宰著作『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫 五二五円)、『俳句でキリスト教』(サンパウロ 一六八〇円)、『雨音のなかに』(ヨルダン社 一三六五円)、『人の思いをこえて』(同 一六八〇円)ほか。*サイン本は平田までご連絡ください。

本誌「余白の風」(一九九〇年創刊)は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索する機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投句・感想等をお寄せください。(採否主宰一任)

○締切=毎月末。返信用切手一枚を同封してください。○会費は無料です。但し通信費援助として、切手(八〇円、五〇円、一〇円)をカンパしていただけると有難いです。○投稿先:ホームページ「今を生きることば」又は、郵便にて。

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