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3(2) 真宗の「親」とキリスト教の「父」  

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「日本的・他力的なるものに至って始めて親が出てきた。」

特に

キリスト教の「父」=「主」

他力宗に「主」の観念はない。

弥陀は絶対愛であり、主はまったく感じられない。

→衆生からでなく、弥陀の方から自然に「とちらへ当たって来る」

→こちらは逃げる→どこまでも追いかける

=逃げても助ける親

<1匹の迷った羊をどこまでも探すアッバには、言及ないか>

キリスト教:神の怒り、父子、主従関係

弥陀=親「如何なることがあっても子を罰することはない。」

<この意味で、弥陀的イエス・アッバの姿を、掘り起こすことは、

日本のキリスト教にとって、死活問題>
キリスト教には「倫理性が多分に入っている」

<倫理性は父性と強い関連>

しかし、最も宗教的なところで他力集と同じものあり

例:エックハルト緒言紹介

ヨハネ16・16「ちょっと」解釈

<共同訳「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが・・・・>

「ちょっと」:心の翳り=「今、ここ」が無くならないと、神は見えない。

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同様に、マダム・ギヨン:全と無

仏教:自力と他力

しかし他力宗では自力は絶対無力ゆえ、他力は「始めからそこにいた」


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