「南無アッバ」を生きる ホーム » ○雑記 »復活信仰の根拠4.井上神父の言葉に再会する

復活信仰の根拠4.井上神父の言葉に再会する  

 こんなことを、あれこれ考えていたとき、出会ったのが、いや、正しくは再会したのが、井上神父様の次の言葉でした。御手許にプリントがある方は、ごらんください。

「私は、弟子たちが復活したキリストに出会ったのは彼らの幻覚であるなどといっているのでは毛頭ありません。

たしかに彼らは復活のキリストを体験したのです。その絶対の確信があったからこそ、あの臆病でイエスの十字架を一緒に荷うこともせず逃げ回っていた弟子たちが、イエスの教えに殉じて死ぬという勇気ある弟子たちに変わったのです。

迫害者サウロがキリスト者パウロに変わったのです。ただ復活のキリストが、本来対象化・概念化できない原事実であるため、その体験の絶対性をあらわす場合には種々の表現をとらざるをえないのだといっているわけです。」

(『日本とイエスの顔』第六章 キリストの生命体 北洋選書版一四三頁)


イエス様が「どのようにHOW復活したか?」という復活の内容――復活の史実性とか真実性といった議論は、連載の方でゆっくりやりたいと思いますので、今日は、復活体験そのものを、問題にしたいと思います。

 この文章で、神父様が傍点を振られた箇所、あるいは、わたしが下線を引いたところ、弟子たちが「復活のキリストを体験した」その「絶対の確信」とか、「体験の絶対性」という言葉に出会った時、わたしは心がズキンとするような衝撃を受け、何やら新鮮な響きを感じたのでした。

 しかしそれが、なぜだかわからないまま、わたしはしばらく、この一文を反芻していました。そうして、たぶんこういうことじゃないかと、だんだんわかってきた(ような気がする)のです。
関連記事


category: ○雑記

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/1111-65156f8c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop