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まつすぐな道でさみしい  

(12)
<歩かない日はさみしい。飲まない日はさみしい。(俳句を)作らない日はさみしい。>

と日記に書いた山頭火は、今日も行乞姿で歩き続けます。
山頭火が生きた道はけっして平坦ではありませんでした。山あり谷ありの凸凹人生です。迷いもあれば、お酒や色の欲も捨てきれない道でした。
他人を悪くいわず逆に自己批判が強かった山頭火は、こうした自分の不甲斐なさにたびたび打ちのめされました。その挙げ句が、熊本での自殺未遂でした。
出家してからも、放浪と酒の虫がおさまらず、庵を飛び出します。酒も放浪もついに止められなかったのは、世間的には意志の弱さ、甘えと片づけられるかもしれません。妻や子、あるいは俳句の仲間、善意の人たちにさんざん迷惑をかけ通した山頭火。
しかしそうした一連の不祥事、優柔不断、紆余曲折にあっても、わたしは山頭火の一生は、「まっすぐな道」、一筋の道を見つめていたのではないか、と思うのです。それは、神仏を求める道、まことの生き方を求める道、救いを求める道でした。

カトリック信者は、「道」といえばまず、十字架の道行きを思い出すでしょう。
福音書ではイエスの受難と死の描写に最も多くの紙面が割かれています。福音書とは本来、イエスの受難史に前置きとして生前史をつけ加えたものだ、とまでいう聖書学者もいるくらいです。新約聖書全体が「イエスはキリストである」という信仰告白に貫かれていますが、その中心はイエスがどのように苦しみ、どのように死んだか、その道行きにあるともいえるのです。

山頭火は自らの救いを求めて放浪しましたが、イエスは人類の救いのために十字架の「道」を「まっすぐ」に進んでいきます。その道の果てに、人間として味わう極限の屈辱と苦しみに満ちた死を遂げたのです。
しかしそのイエスを神は見捨てることはしませんでした。

<神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。>(使徒二・二四)

孤独と屈辱と苦しみに満ちた十字架へ向かった「まっすぐな道」は、暗黒の死を通り抜け、復活へと続く道だったのです。そして、この前代未聞の道をたどったイエスが、今度は、すべての人を救いへと導く「道」そのものとなったのです。

<わたしは道であり、真理であり、命である。>(ヨハネ一四・六)

もちろん山頭火がめざす「まっすぐな道」にもイエスは同伴者として寄り添い、道そのものとなってくれることでしょう。そこに思い至れば山頭火の歩む道は、けっして孤独で「さみしい」ばかりの道ともいえないのです。
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