「南無アッバ」を生きる ホーム » 連載「井上神父の言葉に出会う」 »5.心底からの願望-第19回:無意識の真実-『風』第78号2008年春

5.心底からの願望-第19回:無意識の真実-『風』第78号2008年春  

深層心理学でいう「無意識」、仏教にいう「阿頼耶識」、
そしてキリスト教の「魂」、この三者の異同を精査することは、
もとより筆者の力量をこえています。

しかし、少なくとも右の発言から推して、先に述べた、
氏への批判は必ずしも当たらないと思われるのです。

それは、遠藤氏が右の三つを同一視しつつ、
さらに「無意識の奥」すなわち、深層意識よりもっと深いところに「魂」を想定していること、
そしてそこにおいてこそ、絶対他者としての「神が働く」といっているからです。

氏のいう「真実」や「信仰」に、信者の「深読み」や「取り込み」あるいは「願望の投影」という部分があったとしても、
その「願望」とは、わたしたちが「私」として意識できない
――コントロールできない「無意識」、ないしはその奥の「魂」から込み上げてくる「願望」であり、
ましてやそこには絶対他者としての「神が働く」のです。

この、意識的な「私」からみた無意識の他者性とでもよぶべき事態は、遠藤氏の信仰論にとって、大きな意味を占めているように思います。

氏は「無意識の信仰こそ本物」であると繰り返し述べながら、
次のようにいいます。

<九十パーセント疑い、十パーセント信じるというその十パーセントは九十パーセントより強いのかもしれません。

その十パーセントとは無意識のところで信じていることだと思います。
意識のところでは、たくさん疑う面があるんだけれども、
さっき言った仏教で言う阿頼耶識のところで信じさせているものがあるのではないでしょうか。>
(同三九頁)

(「私」の)意識のうえでは九十パーセントの疑いを持っていても、
(「私」のあずかり知らない)「無意識において十パーセント信じている」、
「阿頼耶識が信じさせている」、しかも「その十パーセントの方が強い」、
というのです。

こうした発言からは、遠藤氏の信仰論の根底に、無意識の「真実」と、
そこでの「働き」である神=アッバへの絶対信頼が根底にあることが強く感じられます。

それはまさに、井上神学でいうところの「南無アッバ」にほかなりません。

口幅ったい言い方になりますが、遠藤氏が「信仰者がそれを心の底から欲した場面であるから、
真実なのである」という、きわめて文学的物言いをしたとき

(ここでの「文学」については『心の琴線に触れるイエス』七章参照)、

もしさきのような批判をするなら、以上見てきたように、
氏のいう「心の底」の意味、そしてそこに絶対的に働く方の力を、十分にわきまえなければならないでしょう。
関連記事


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/1096-863e2c42
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop