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3.遠藤周作の「事実」と「真実」-第19回:無意識の真実-『風』第78号2008年春  

ここで、少しく遠藤氏の信仰論を垣間見ながら、氏にとって、聖書における「事実」あるいは「真実」とはどういうものであったかを、一瞥しておきたいと思います。

氏は右書引用箇所の前、第九章において、イエスのエルサレム入城以降の受難物語が、必ずしも史実どおりでない可能性を指摘しながら、次のようにいいます。

<どの部分が事実であり、どの部分が創作であるかは、それぞれの学者によって意見がちがう時、積極的に私がとる態度は一つである。
私としては聖書のなかの事実と真実との意味をはっきり区別したいのである。>
(一五一頁)

まず、ここにいう「事実」とは、本稿で述べてきた「史実」と同意義と考えてさしつかえないと思います。

その上で、次のように続けています。

<・・・・しかし事実でなかった場面もそれがイエスを信仰する者の信仰所産である以上、真実なのだ。
それは事実などという枝葉末節のことをはるかに越えて、その時代の信仰者がそれを心の底から欲した場面であるから、真実なのである。>
(同)

遠藤氏によれば、信者の「信仰所産」が「真実」であり、それは信者が「心の底から欲した場面」であるからだといいます。

しかもそれは、「事実」という「枝葉末節」のことを「はるかに越えて」重要なのだというのです。ここには、「史実より真実」という発想が明確に読み取れます。

このような考え方は、大胆に過ぎるという意見も当然あるでしょう。

筆者はこれまで、井上神父が聖書に対し、実存的体験的に求道者としての読みを重視しようとしたとき、常に「深読み」や「取り込み」を危惧する批判を受ける可能性を指摘してきましたが、文学者としての遠藤氏の主張は、さらにラディカルな印象を受けます。

たとえば、『私にとって神とは』(一九八三年・光文社)のなかで、

<――じゃあ聖書がイエスの生涯や言葉をそのまま書いたのではないとしたら、そのショックを、どのようにしてあなたは乗り越えたのですか。>
(五三頁)

という質問に対して氏は、次のように答えています。

<それは、いま言ったように、私が小説家だったからです。
小説家としての私は、実在の事実を使って、事実を超えた世界を創ります。
そして、その世界は、事実よりも、もっと人間にとって真実だという確信を持っていますし、その確信を持たねば作家ではありえなかったでしょう。
聖書を読んでも、それと同じ気持になりました。
なるほど、十九世紀以降の聖書学者の努力で、我々は聖書が必ずしも事実どおりではないとわかりました。
しかし、事実どおりでなくても、それは私の小説と同じように、聖書作家たち(マルコやマタイやルカやヨハネ)が、自分たち教団の信仰理念に基づいて事実を再構成し、事実でなくても人間たちの夢を吹き込み(なぜなら彼らが集めて聖書に挿入したイエス伝承は、人々の願いや夢でもあったわけですから)、事実の羅列以上に生命を吹き込んだと言えないでしょうか。
私はその吹き込んだ生命を小説家として興味を持ったのです。>
(同五三~五四頁)

ここで遠藤氏は、「事実よりもっと真実」な「世界」の大切さを確信する「小説家」としての矜持から、「聖書作家たち」の意図を類推します。

すなわち、福音書には、イエスを信じた「人々の願いや夢」が吹き込まれているがゆえに、「事実の羅列以上に生命」が吹き込まれている。

そうして「事実を再構成し」た福音書の「世界」は、「真実」なのだというのです。

しかし、ここまでの所を見れば、遠藤氏のいう「真実」あるいは「信仰」とは、先の「深読み」や「取り込み」を含め、人間の願望の投影にすぎないのではないか、という疑問を呈する人がいるかもしれません。

現に筆者自身、非キリスト者をはじめ、一部のキリスト者からも、そうした批判の声を聞いてきました。
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