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2.「罪」と「ゆるし」の具体性-第19回:無意識の真実-『風』第78号2008年春  

ところで、「ゆるし」とは、ゆるされる対象がなければ意味をなさない言葉です。

では原点に帰り、「何がゆるされるのか?」と問うなら、それは、これまで見てきたような「罪」――イエスの弟子たちに即していえば、彼らの「裏切り」であり「卑怯さ」であり、「エゴイズム」、「至らなさ」、「恥」でもあります。

それらにともなう「後ろめたさ」や「罪悪感」は、同時に苦しみでもあります。

こうした「罪」は、前述のとおり、現代のわたしたちにもつながるものではありますが、ここでまた、確認しておきたいことがあります。

それは、彼らにとって、こうした「罪」も、イエスによる「ゆるし」も、けっして漠然とした、抽象的な――なんとなくゆるされる、といったものではなく、具体的に犯した「罪」が、具体的に「ゆるされる」という体験だった、ということです。

この「罪」や「ゆるし」の具体性という点では、次のように語る遠藤氏の言葉が、非常に説得力あるものとして、筆者には思い起こされます。

<自分たちが助かるためにはイエスが死ななければならぬというのは彼等にとって観念ではなく、具体的な事実だったのである。
この瞬間から弟子たちにとってイエスは自分たちの罪をすべて背負った者として考えられていくのである。

屈辱、慚愧、自己軽蔑、そのくせ、「仕方がなかったのだ」という自己弁解――おそらく弱者が生きつづけるために味わうあらゆる感情をこれら弟子たちは三十数時間、噛みしめた。>
(『イエスの生涯』第十三章「謎」)

さらに、<エマオの旅人>については、

<夕暮のこの哀しい物語には同伴者イエスのイメージがはっきりと出ている。
弟子たちにはイエスが死んでも、自分たちのそばにいるという生き生きとした感情が、いつの間にかうまれたにちがいない。
それは抽象的な観念ではなく、文字通り具体的な感情だった。
イエスは死んでいない。
自分たちになお語りかけているという気持は事実だったのだ。>(同)

このように遠藤氏は、イエスの受難前後における弟子たちの立場や心情を「具体的な事実」として、強調しています。
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