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1.「罪意識」の普遍性-第19回:無意識の真実-『風』第78号2008年春  

師イエスの弟子たちの復活(者顕現)体験は、まさに、パウロと同じ、

<罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。>

(『ローマの信徒への手紙』五章二〇節b)

という、喜びの体験だったにちがいありません。


ただしその「罪」は、必ずしもパウロが右の手紙の中、

ユダヤ教の文脈で語る、この節の前半、

<(旧約の)律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるため>

という意味付けを必要とするものではなかったと思います。

というのは、

弟子たちが師イエスを「裏切った」がゆえに感じた「後ろめたさ」や

「罪悪感」といった「罪意識」は、食物規定や清浄規定に

代表される特定民族の文化的背景から生まれた旧約律法を

前提としなくても、

およそ、人間として誰でも直感するものだと思えるからです。


このような「罪意識」は、時代や文化をこえて普遍的に、

わたしたちにも容易に理解できるものです。

井上神父や遠藤周作氏の説は、このように、

旧約の律法違反とは一線を画す「罪意識」によって

展開される復活論だからこそ、わたしたち日本人の神学としても、

大きな共感をもって迎えられているのだと思います。

この点は、先に指摘した「罪意識の広義性」に通じるものでもあります。


こう考えてきますと、井上神父や遠藤周作氏が、

普遍的罪意識につながる、イエスに対する「裏切り」という、

具体的な史実を中心に、

最後の晩餐から復活に至る弟子たちの内的真実をとらえていることが、

大きな意味を持ってくるのではないか、と改めて気づくのです。

この地点から掘り起こされる「罪」、

あるいは「罪意識」を常に念頭に置きながら、井上神父は、

<福音書は、生前から死後の「復活者顕現物語」まで、

まさに一貫して、ゆるしのまなざしによる、

弟子たちや人々の回心の物語なのである。>

(『わが師イエスの生涯』一九一頁ほか)

と繰り返し述べているのだと思われます。
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