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八木重吉『神を呼ぼう』読書案内-第145号  



私は

基督の奇蹟をみんな詩にうたいたい

マグダラのマリアが

貴い油を彼の足にぬったことをうたいたい

出来ることなら

基督の一生を力一杯詩にうたいたい

そして

私の詩がいけないとこなされても

一人でも多く基督について考える人が出来たら

私のよろこびはどんなだろう        



昭和初年の「ノートA」に書かれていた「願」という詩。

生前一冊の詩集しか残さなかった重吉。

しかも、その『秋の瞳』には、自身の完成度という尺度からか、

いわゆる信仰詩は、ほとんどとられていない。

しかし、この「願」を一読すれば、重吉の行き着いた地点がわかる。
すなわち、

基督の一生を力一杯詩にうたいたい

という思いであったことは、間違いあるまい。

 この詩が、八木重吉著・鈴木俊郎編『神を呼ぼう』(新教出版)の巻頭に掲げられている。

日本におけるキリスト教詩の原点は、重吉にあるといわれる。


重吉はこの詩のなかで、

「基督の奇蹟をみんな詩にうたい」「マグダラのマリア」とイエスの交流を「うたい」、

最後に「基督の一生を」「うたい」切りたいというのだ。イエスをうたい、

聖書をうたうこと、そこに詩人としての第一の生きがいを持つ。

キリスト教文学者であれば、ジャンルを問わず、

多かれ少なかれこうした願いは共通しているのではないだろうか。

たとえ、どんなに罪や悪を描いても、けっきょくはキリストの香が、

コントラストに浮き出てくる、キリスト教文学とはそのようなものなのだと思う。

その上で、自分の作品が「いけない」「だめだ」と批判されたとしても、

そのことをきっかけとして、キリストについて考える人が、

一人でも出てきたら、どんなにうれしいだろうか、

それでいいのだ、と結んでいる。

あらゆる正しい宗教に共通する第一の目標は、自己相対化である。

あちら様(神仏)が主で、こちらが従。

そのことによって、生きることに軽みが出てくる。

軽薄ではない、肩の力が抜けるということ。

自分の仕事がどんなにけなされ、軽蔑され、そのことでプライドが傷ついても、

あちら様が主であることが伝わるなら、「私のよろこびはどんなだろう」というのだ。

ここにわたしは、創作主体としての喜びと、自己相対化――救いへの道という、

いわば文学と信仰という、従来二律背反として論じられてきた課題への

実作者としての解決姿勢を見るのである。


わたしの持っているのは、新書版一九七九年二〇刷のものだが、

ちょうど生涯の霊的師・井上神父に出会う頃入手したのだった。

爾来繰り返し愛読している。

とくに信仰がぐらついたとき、迷ったときには、巻頭から一気に読む。

全一七〇頁の薄い詩集だが、たいていは、最後まで行く前に、

目の前が開けてくるような気がする。

たれか、重吉の詩は、日本人の福音書だと言った人が居た――。

至言と思う。
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