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第2部(18)史実から真実へ5.罪意識の前提性(「風」第77号連載2007年冬)  

ここで読者は、本稿第二部の最初の部分で筆者が述べたことを

思い出してくださるかもしれません。

<今わたしたちは、イエスの「復活」について考えているわけですが・・・・

(井上神父は)弟子たちの復活体験の前提には、

イエスを「裏切った」がゆえの「自己嫌悪、恐怖感、不安・・・・暗黒」

さらに「会わす顔がない」「赦されるはずはない」という

いわば後ろめたさ・罪悪感があるというのです。

これは説得力のある「推測」であると同時に、重要な指摘です。

なぜならわたしにはこの辺りに、聖書が語る「罪」と井上神父の、

ひいては日本人の「罪意識」とを結ぶ鍵があると思えるからです。>

(第六八号(十一)三九頁「復活の前にあるもの」)

 筆者はこのように述べて、以下、井上神学では、

日本人の罪意識が「申し訳なさ」や「エゴイズム」、

ないしは「恥」にもつながる、広い意味を持つものとして受け取られている、

と解釈したのでした。


 先に引用したエマオの「二人の弟子」たちの「絶望と自己嫌悪・・・・

師を見捨て、裏切ってお慰めにもでなかった自分たちの卑怯さと、

だらしなさに、後悔の念に打ちひしがれ・・・・

重く、暗い心」といった心理描写のなかでは、

井上神父は直接「罪」という言葉を使ってはいません。

しかし明らかにここには、本稿で述べてきた、

広義の罪意識が表現されている、と筆者はみています。

そして、この「罪意識の広義性」と並んで、いま確認しておきたいのは、

<エマオの旅人>を含めた「復活者顕現物語」の解釈において、

井上神父は、弟子たちの「復活体験の前提」として、

こうした罪意識について詳述している、という点です。

このことから、弟子たちの罪意識が前提となって、彼らの深層意識に、

「先生は、自分(たち)をゆるしてくださっている(いた)のだ!」という、

イエスの「ゆるしのまなざし」への気づき――強烈な宗教体験が生起し、

決定的な回心へと導かれていったのだ、と考えられるのです。

先の、「復活のキリストは、対象化できない、

個々の体験でしか捉えられない原事実」

-非対象・個別・体験的-ということの意味は、

こうした事情をも含むものではないでしょうか。

「罪意識の広義性」とならんで、

この、復活体験における「罪意識の前提性」とでもいうべき構造は、

「イエスの復活とは何か」を理解しようとするわたしたちに、

大きな示唆を与えてくれているように思います。

(つづく)

本稿について、井上神父からの一言
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