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第2部(18)史実から真実へ2.イエスとトマス(「風」第77号2007年冬掲載)  

『福音書を読む旅』で取り上げられている「復活者顕現物語」の中からもうひとつ、

井上神父の行間読みの特徴がよく出ていると、わたしが常々思っている箇所、

<イエスとトマス>(『ヨハネによる福音書』二〇章二四~二九節)の話に触れておきたいと思います。
   
<24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、

彼らと一緒にいなかった。

25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、

トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、

また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。

戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、

「あなたがたに平和があるように」と言われた。

27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、

わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、

わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。

見ないのに信じる人は、幸いである。」>
   
このペリコーぺは、その直前の『ヨハネによる福音書』二〇章一九節から

二三節の<イエス、弟子たちに現れる>を受けて書かれていると考えられます。

そしてこの並行箇所が、先に取り上げた『ルカによる福音書』二四章三六節以下の

<弟子たちに現れる>になっているのです。

したがって、この<イエスとトマス>の箇所では、

やはりイエスの復活体の可視性、

さらに「指を釘跡に入れ」「手をそのわき腹に入れ」などの語から、

(少なくとも現在の日本語訳聖書の文字面を追うならば)読者の関心は自然に、

可視・可触を含めた復活体の外見的史実へとひきつけられるのではないでしょうか。

すなわち、トマスは他の弟子たちといっしょにいなかったので、

復活のイエス顕現に立ち会えず、

「わたしたちは主を見た(顕現された)」(二五節)という

他の弟子たちの証言を信じようとしません。

しかしその後トマスにもイエスが顕現されて、十字架の傷を確認させ、

「・・・・信じる者になりなさい」と諭す。

そしてこのペリコーぺの結論として、

「見ない(顕現されない)のに信じる人は、幸いである」と、

教訓的に一般化されます。

このように、わたしたちは、福音書の文字面を追っていけば、

つい「信仰」の「神話的」「表象的」言語性を忘れ、

復活体の外的史実性をめぐるペリコーペとして読んでしまうわけです。

このことは見方をかえれば、それだけ、

「イエスは死んだままではない!」という、

初期キリスト者の熱い思いを反映しているのだ、ともいえるのですが――。
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