「南無アッバ」を生きる ホーム » 今日、心に残った言葉 »出会い

出会い  

ルカによる福音(1:39-45)

マリアがエリサベトのところに出かけていき、二人が出会う。
二人の交歓が美しく描かれている箇所。
ロザリオの祈り、喜びの第二玄義として度々祈ってきたが、一五(二〇)玄義のなかでも、最も美しい光景を黙想できる箇所である。
マリアとエリサベト、イエスとヨハネの霊的出会いは、二人の母の胎内にまで溯ると、ルカは伝えている。

今日は、「出会い」、あるいは「縁」の不思議に思いをいたす。
半生を振り返れば、何気ない出会い、偶然のように思えることの積み重ねによって、今の自分がある。
たとえば、井上神父との出会い。
あのとき遠藤周作氏の本に出会っていなかったら、井上師との出会いもなかった。
同じころプロテスタントの一信者に出会わなければ、やはり井上師を知ろうともしなかったろう。
書物、人、事件・・・・そしてさらに病や苦しみなど、一見マイナスな事柄こそ、大切な出会いのチャンスになっているのではないか。
関連記事


category: 今日、心に残った言葉

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

tb: 0   cm: 3

コメント

メリークリスマス

わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し 変わることなく慈しみを注ぐ。エレミヤ 31:3

青葉 #mQop/nM. | URL
2005/12/22 00:46 | edit

必然と人為

仕組まれた出会いというべきものを、僕も感じます。神経症を病まなければ妻との出会いもありませんでしたし、あのやんちゃな娘もこの世に存在しなかった。
いや、それ以前に、僕が僕であるためには父が父であり母が母でなくてはならなかったし、その二人が生きて出会わなくてはならなかったし、兄や姉がいなくてはならなかったし・・・これをずっと人類の祖先にまでさかのぼれば、自分の存在を肯定するために天文学的な数の偶然を肯定しなくてはなりません。
そうしたすべての偶然が、実はご計画であり必然だったのだと考えることは楽しいし、使命感をおぼえます。

しかし、ここがよくわからないのですが、生そのものや生きている人同士の出会いを必然として肯定するためには、一方で死んだ人の死も必然として肯定しなくてはならない、ということにはならないでしょうか?

つまり、生きている人同士が出会い、そこに何かが生まれるためには・・・たとえばご主人を亡くされた女性と、ご主人の友人であった男性とが愛し合い、そこに新しい生命が生まれるとして、その命をご計画として肯定すると、ご主人の死もご計画の一環として考えなくてはならないのではないか。それともご計画とは、ご主人が亡くなって、その奥さんを神が哀れに思ったところから始まるものなのか・・・このあたりがどうも釈然としないのです。

さらにファルージャの虐殺で亡くなったイラクの民、テロの犠牲になった人々、犯罪で亡くなった人々の死は、これは人為的事故であって必然ではないのか。だとすれば、そこで生き残った人にのみ、主のご計画がはたらくのか・・・。

主の恵み、ということを聞くとき、その考えがいつも生きている人本位のものになっていることに、立ち止まってしまいます。死んだ人の無念や悲しみは、そこでは排除されているように思えてならないもので。

もず #mQop/nM. | URL
2005/12/22 12:54 | edit

もずさんへの

答えにはなっていないかもしれませんが、意識しながら書きました。
http://yohaku5.blog6.fc2.com/blog-entry-110.html

余白 #oBO5MkqQ | URL
2005/12/25 20:48 | edit

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/104-a414ab61
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop